気がついたら下半期がはじまっている。

 

読書ペースは例年どおり月に3~4冊程度だけれど、読書運が悪いのか、今年はあまり感想や考察をあれこれ妄想するほどの良著に出会えていないような気がする。読書記録をふりかえってみても、読後の熱を鮮烈に思いだせる小説はまだ2冊しかなかった。海外のSFとミステリー。どちらもストーリーはさることながら、キャラクターの造形と彼らの織りなす会話の空気やテンポがいい。海外小説のこういう、設定の“脇道”まで我を通して細かいところが個人的に刺さっているのかもしれない。最近の日本の小説は、ちょっと「共感」を意識しすぎてる感がある。

 

国内の小説つまんねーから海外の小説読み漁ろ、と割りきれたら楽なんだろう。でも、それは自分の視野をせまくしてしまうから。結局のところ惰性で「雑食」をつづけている。そういう複雑な心境の中で積読の山にまぎれこんでいたのが、瀬尾まいこの『夏の体温』だった。

 

瀬尾まいこの小説は2年前に読んだ『傑作はまだ』ぶり。あのときの余韻で手にとったけど、『傑作はまだ』ほどの読後の熱はなかった。感想や考察、といわれると難しい。ただ、Wikipediaで瀬尾まいこの作品リストを確認してみると、長い読書人生の中で他に『図書館の神様』『強運の持ち主』『温室デイズ』も読んでいたことがわかった。『図書館の神様』『温室デイズ』はたしか高校生のときに読んだけど、『強運の持ち主』『傑作はまだ』そして『夏の体温』の3作については、2年に一度のペースで読んでいる。

 

正直なところ、「好きな作家は?」と訊かれてもたぶん私は「瀬尾まいこ」の名前は挙げない。なのに作品は定期的に読んでいるし、『夏の体温』に関しても、物語の具体的な感想が思いつかないわりに「よかった」という気持ちを文字で残しておきたいと思う程度には、どうやら気に入っている。

 

なぜなんだろう、と考えあぐねているときに、ちょうどバイキングに行く機会があった。そこでようやく結論が出た。

 

瀬尾まいこは、私にとってバイキングのサラダだったんだ、と。

 


 

なんでもOKになると、わがままは成り立たない。それに、どれだけ買ってもらっても、欲しいものを手に入れた気分にはなれなかった。許されることが増えることは、本当は悲しいことなのかもしれない。

 

(P21/L4~6より)

 

以前『傑作はまだ』の感想でも綴ったけれど、瀬尾まいこは、めちゃくちゃあたりまえのことを書く。これでもかというくらい大真面目に書く。それは単に小説を書くのが下手という意味ではなく、むしろあたりまえすぎて私たちがいちいち思いださないことを思いださせるために、あえて言葉を費やして、書いているのだと思う。「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、 ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書く」とは井上ひさしの言葉だけれど、瀬尾まいこが紡ぐ文章を読んでいつも最初に頭をよぎるのはいつもこの言葉だ。

 

私にとって、バイキングとは創造のゲームだ。ステージに用意されている品目の中から、工夫して自分を満足させられる“フルコース”を組みたてて、計画的に、美しく食べる。好きなものを好きなだけ食べることはしない。初めてのものや、好きじゃないものもできるだけ食べる。コース料理とは得てしてそういうものだし、そうした非日常体験もまたフルコースの醍醐味だからだ。

 

そして、私のフルコースにはいつもおおよそ中間地点にサラダが来る。もちろん、サラダが大好物だからじゃない。肉料理、魚料理、パンにごはんもの……ひととおり料理を食べていくと、必ず「素材そのものの味」が恋しくなるせいだ。サラダにドレッシングはほとんどかけない。味や栄養バランスという話ではなく、不意に食べる生野菜はときどき、ただなんとなくしっくりくる。

 

確かに私は学校生活を楽しんではいなかった。でも、それは、周りに悪い人間がいたからではない。私が自分に引け目を感じて、妙な自意識で閉じこもっていただけだ。誰かをひどいと思うまで他人と付き合ってこなかったから、悪い人間や冷淡な人間関係をどう描けばリアルになるのかわからなかった。

 

(P129/L3~6より引用)

 

瀬尾まいこの「あたりまえ」がしっくりくるのも、たぶんほとんど似た理由だ。ドラマチックな小説をしこたま堪能したあとで、結局、シンプルな理屈や言葉が恋しくなってしまうのだろう。そして彼女の物語はいつも、そんなときにサラダのようなさっぱりとした口当たりで小説の濃さ――ドラマチックな部分を、ちょうどよく否定してくれる。

 

物語は私を救ってくれる。しんどい現実から、優しい世界へと連れだしてくれる。だけど、こんなふうに頭の中以外を自由に動かしてくれることはなかった。現実は、私の意志のもと、私の体をどこにだって運んでくれる。

 

(P163/L8~10より引用)

 

言葉というのは、知らないことをおそれる私たち人間が知らないことを減らすための道具で、本当は世界は二極論じゃない。世界がグラデーションだということを知っている、あるいは知ったうえでおそらく無自覚に作品に反映しているのは、私が知っている作家では今のところ今村夏子と瀬尾まいこだけだ。前者はどちらかというと、「今日はサラダを食べよう」という確固たる意志で食べるときのサラダ。その言葉を、必要としているから食べる感じ。対して後者は、不可抗力で食べて想像以上に美味しかったときのサラダ、という感じがする。思いがけずだったからこそ、「効いてる」感覚がする栄養。

 


 

さて、『夏の体温』を読み終わって、またしばらくは海外産のミステリーやSF――重厚なヒューマンドラマがつづく。

 

いつかまた、身体が瀬尾まいこの小説を求めるときが来るかもしれない。そしてその、やさしくてふかくてゆかいでまじめな言葉に顔を綻ばせるのだろう。瀬尾まいこは私にとってバイキングのサラダだ。非日常で不意に思いだす現実。またふたたび日常を生きていくために、とても大事な栄養素である。

 

余談だけど、個人的には表題作よりも「魅惑の極悪人ファイル」のほうが好きだった。鍼灸院かな?ってくらい心ぶっ刺されたあとの最後の一行が至高すぎる。サラダの話はどうでもいいので、今日はせめてそれだけ覚えて帰ってください。それでは。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。