今村夏子『こちらあみ子』を読みました。以前読んだ短編集『あひる』が上手く言葉にできないけれど衝撃的で、著者と作品を理解するにはもっと数を読みこむ必要があるのでは、とデビュー作である「こちらあみ子」を含むこちらの短編集にも手を出した次第です。結論を言ってしまうとますますわからなくなった。で、私はそういうまったくわからない小説が好き。

 

 

 

話題の『あひる』を読む前に

あみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校をしてくれる兄、書道教室の先生でお腹には赤ちゃんがいる母、憧れの同級生のり君。純粋なあみ子の行動が、周囲の人々を否応なしに変えていく過程を少女の無垢な視線で鮮やかに描き、独自の世界を示した、第24回三島由紀夫賞受賞の異才のデビュー作。書き下ろし短編「チズさん」を収録。

 

――文庫裏より

だけどそれは都合よく流れに乗ったという意味ではなくて、目の前に置かれた課題に夢中で取り組んでいると、いつの間にか今いる場所に連れてこられていた、という感じ。もちろん将来の自分の姿を思い描いて夢を膨らませたりすることはあるけれど、明確な目標というのはなにひとつ持っていない。過去や未来は関係ない。

 

(「ピクニック」P137/L10~14より引用)

 

本書をふりかえってみると、3編の短編に共通するテーマは引用したこの1文によくあらわれているのではと思います。物語としての読みやすさ・理解のしやすさ・考察するおもしろさは体感的には『あひる』よりも本書に軍配があがるかな。『あひる』は日常の中にある綻びを一線引いたところから静観している人々を視点にした印象、対して本書は、綻びそのものか綻びの一部になりつつある(あった)人々の視点で物語を紡いでいるように読めました。『あひる』は今年1月に文庫化され未だ本屋の平積みでも見かける機会が多いと思いますが、気になっている方はぜひ、本書から読みはじめてはいかがでしょうか。

 

個人的には「ピクニック」「こちらあみ子」の順に好きです。「チズさん」は作品の構図が『あひる』の「おばあちゃんの家」「森の兄妹」に似ていて、単体で考察するのは難しかった。私自身が祖母と良好な関係を築けておらず、お年寄りは苦手・こわい、という感情があるので。ただ、著者自身が描きたいモチーフのひとつなのだろうなというこだわりは感じます。このあたりは別個の感想でまた触れます。

 

 

 

ただ、今に一途であるということ

こちらあみ子

あみ子には前歯が3本ない。中学生のとき、男の子に殴られて左側の3本を失ったのだ。彼、のり君のことが好きだった。それは祖母と一緒に暮らす前、父と母、不良の兄と、純粋で奔放なあみ子が4人で暮らしていた頃の話である――。

まわりの人々を次々に絡めとっていく混じりっけのない善意・好意になすすべもなく、本作の主人公・あみ子とは、ただひたすらに“今”を生きている純粋で一途な少女なのだという事実に打ちのめされる。

 

彼女の見ている“今”に、過去と未来、私とあなた、善と悪……人間が暫定的に定めてきたあらゆる物事の境界線は存在しない。社会の枠組みをすっかり刷りこまれた私たちにはあみ子がおそろしい。おそろしいと思いながらも、けれど疎むことで視界の端に彼女を置きつづける。私たちは世界に対して、彼女ほど純粋ではないし、一途ではないから。

 

「砂山のパラドックス」という思考実験はご存知でしょうか。仮にここに1万粒の砂が山を築いているとして、そこから、1粒ずつ砂を取りだしていく。すると、はたしてどこからこの「砂山」は「砂山」ではなくなるのか、という言語哲学の問題です。

 

私たちはたぶん、「砂山」が「砂山」でなくなる瞬間を探しつづける。私たちには「砂山」と「砂」と曖昧で明確な境界しかないのだから。ところがあみ子といったらどうだ。彼女の見ている世界にはきっと〈砂山が砂山でなくなるところ〉が地つづきに存在している。そのとき彼女にとって価値があるのは砂山だった瞬間でも砂になる瞬間でもなく、ただ、砂が1粒また1粒と取りだされていることそれ自体のはずなのです。

 

今まさにこの瞬間だけが世界のすべてであり、そして、楽しい。前歯がないあみ子の歪さに強く惹かれている自分がいる。……でも、その天真爛漫な姿が微笑ましくもあれば無性にイライラもする、そういう複雑で不器用な人間と世界も好きだな、と、P115~120のエピソードを読むと思ってしまいます。

 

 

 

ピクニック

ルミたちが働く『ローラーガーデン』に新たな従業員が加わった。年上だけれど自分たちの母親ほどの年齢でもない七瀬という女性は、聞けば、有名お笑いタレント・春げんきの恋人なのだという。おもしろがって話を聞くと、七瀬さんは2人のなれそめを語りだし――。

近年、「偏愛」というキャラクターが人気コンテンツになりつつある。偏愛するものは変わっていれば変わっているほどよく(ヘン・・愛だけに)、愛好家、マニア、オタクと名を変え、人が一途でいることが「おもしろいこと」になってきている。

 

そこで、たとえば今適当に考えましたが、Aという人物が無類のペットボトル好きであるとテレビで紹介されたとしましょう。メーカーごとの特色とか造形美だとか鼻息を荒くして語りだすAのことを、私たちはどう感じるでしょうか。

 

このAというのが、まずスタッフが発掘してきた一般人だったとします。ペットボトルをうやうやしく手にとり魅力を語りだすAを私たちは滑稽に感じて「おもしろいもの」と評価するでしょう。ところがAが芸能人である場合、どういうわけか一転してそれは「おもしろくない」と感じることがある。

 

一時期「感動ポルノ」という言葉が話題になりましたね。あれはつまり障害を持った人々を「弱者」と見なし視聴者に感動等を煽る場面に用いられる言葉ですが、本作でルミたちが七瀬さんの一途を「応援」するときの感情は感動ポルノのそれに近いのではないか、と私は分析します。

 

ルミたちにとっての七瀬さんとは、なんとなく自分より下なのです。下である七瀬さんの偏愛は「おもしろいこと」であり「応援すべきこと」であり、それができる自分にも少なからず酔っているのではないか、と。

 

優しくするという行為には縦の力関係があるように感じます。ルミたちと七瀬さん。七瀬さんとげんき君。七瀬さんと新人。新人とルミたち。元をたどればルミも七瀬さんも新人も『ローラーガーデン』の従業員であり支配人との縦の関係が存在します。若い人たちのあいだでは「マウント」という言葉が流行っていますが、本作もまた、静かにマウントをとりあう人々の話と読むこともできそうです。

 

タイトルの「ピクニック」という言葉にはつかのまの非日常に対する高揚感があります。外で食べるごはんはなんでも美味しく、非日常の中ではなんでも「特別」な気がする。ルミたちにとって七瀬さんの偏愛はささやかなピクニック(娯楽)であり、今日のピクニックが終わっても、平凡な日常があるかぎり非日常は生みだされ彼女たちの腹の中へ消費されつづけることでしょう。

 

 

 

チズさん

近所に住む、チズさんというおばあさん。昼寝をしたり、お菓子を食べたりと、〈私〉は彼女の家へたまに遊びに行っていた。ある日、スーパーでケーキを買ってきてチズさんの誕生日を祝おうとしていると1台のタクシーが家の前で止まり――。

全体的に少し左に傾いていて、まっすぐ立つことができないチズさん。彼女を支えて歩く姿をからかわれるのが恥ずかしくて〈私〉は「まっすぐして」とチズさんに言うのだけれど、ある場面、奇跡的にまっすぐ立ったチズさんに〈私〉が咄嗟にかけた言葉は「動かないで」でした。

 

個性。多様性。口では立派なことを言いながら、しかし人は無意識か意図的か、関わる者に自分が接しやすいキャラクターを割りあてて自分の世界を構築していく。「動かないで」と言われたチズさんからは笑顔が消え、白髪頭は新しい可能性である〈私〉から元の所属先であるみきおたち家族のほうへむこうとする。――気になるその後の展開は実際に読んでもらうとして。

 

前回読んだ『あひる』も含めて著者のこれまでの短編をふりかえると、どうも子供と老婆のモチーフは著者の中でひとつの特筆すべきテーマであるらしい。介在するはずの〈大人〉をすっとばして直線に結びつく〈子供〉と〈老人〉。この構図は児童文学や童話によく見られる構図ですね。

 

子供は未来の象徴で、老人が過去の象徴だとすると、しかし本書で一貫して描かれるのは「 過去や未来は関係ない」物語……?考えだすとまた長くなりそうなのでそろそろ締めます。

 

 

 

世界の果てにただ“ある”ことを書く作家 伝える作家

唐突な黒歴史の発表。

 

ではなく、これは数年前ジュリアン・バジーニ『100の思考実験:あなたはどこまで考えられるか』(向井和美・訳)を読んだ際、「邪悪な魔物」について考えるのに書いた私のメモなのですが、本書の作者・今村夏子氏とはまさしくこの〈?の目〉でもって世界を見ている作家なのだと思います。

 

【邪悪な魔物】

理性で理性を疑えるのかという思考実験。たとえば2+2=4はあまりに当然で自明なので正しいようにしか思えないが、実際には能力に長けた邪悪な魔物が私たちを欺いていていかにもそうであるふうに間違いを正しいと信じさせている――ということはないだろうか?この世界に「疑いようのないもの」は本当に存在するのか?というもの。

 

私たちにとって「世界」とは自分を中心とした周辺のことであり、そこには自分なりに定めた境界があり、理解したくないものは自由に排除することができます。もちろん、それはおおよその小説とその作者にとっても同じはず。人間なのだから。

 

ところが、今村氏とその著作『こちらあみ子』や『あひる』はそんな人間の視点をじつにしなやかに飛び超える。私たちが排除した知覚できない世界の側から、私たちの世界を通り、そのさらに奥――正真正銘、世界の果てまでを見つめている。「正しい」とか「わかる」とか、もうそういう次元でないものがそこにはただ“ある”。その無垢を描いている。ありのままに伝えている。

 

人間は極限状態を迎えたときにその本性があらわれる、と誰かが言っていた。だけどきっとそうじゃない。人間の本性。私たちが隠した気になっているそれは、あみ子やルミ(七瀬さん)や〈私〉が持つ〈?の目〉によって、凡庸な日常から、じわじわとあぶりだされる。

 

おそろしくも悲しくも愛おしくもある人間の無垢を、見つめるのも排除するのも、決めるのはあなたの世界の王たるあなた自身なのだけれど。

 

あなたはその世界の外側にあるものを、読んでみますか?

 

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。