!ネタバレ注意!

本記事は一條次郎『レプリカたちの夜』について独自に解釈した考察記事です。作品の結末や核心に触れる部分を引用する場合がございますので、作品既読の方またはこれを承諾する方が読むことを推奨します。また、記載される内容はあくまで筆者個人の意見です。以上のことに同意していただける方のみ続きをお読みください。

 

一條次郎『レプリカたちの夜』を読んで思ったこと、調べたこと、気になったことなどを書いてみました。考察というよりはとりとめのない思考の垂れ流し。感想記事のボツネタ集。「ふーん、そんなことを考えるやつもいるんだ」程度の気持ちで読んでください。

 

 

 

物語全体に関して

読了直後の感想はこちらを参照してもらうとして、改めて作品をふりかえると、構図的にはかの有名な思考実験〈水槽の脳〉とか、あとは山本弘氏のビブリオバトル部シリーズで知った(詳しく言及していたのは1作目『翼を持つ少女 BISビブリオバトル部』だったかな)エドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』とかを思いだしました。

 

「レプリカっていうけど、なんなんだろうね。これふつうにわたしじゃん。ていうか、わたしはどっちなんだろう。どっちが本物のわたし?」

 

(P238/L11~12より引用)

 

作品の後半から描かれる私は私である・・・・・・いう不確かさはかつてデカルトが説いた「我思う故に我あり」も彷彿とさせる。作中、うみみずがデカルトについて「バカの最右翼」と言った場面もありましたよねそういえば(P103/L9)。

 

引用したうみみずの言葉に対して往本は「だってそれ、今うごきだしたんだぞ」と、つまりより古い自己の記憶を持つうみみずが本物である、というふうに答えます。じゃあ過去の記憶があれば自分を証明できるのかを考えたとき、今そこにバグが生じているこの往本自身は、さて、どう捉えるべきなのでしょう。

 

少なくとも、本人が本物・・であると確信を持っていえることは幸せなことだと、本書を読んで往本の心情を辿ると実感します。

 

 

 

シロクマについて

「シロクマについてしらべてほしいんだ。うごいてるの、見たんだよね?」

 

(P22/L7より引用)

 

奇しくも本書の前に読んだ小説も鈴森丹子『シロクマ係長の奇跡』とシロクマ作品がつづいたこともあって、シロクマであることに意味はあったのだろうかと気になり、心理学あたりに狙いをつけて検索したらビンゴ。アメリカの心理学者ダニエル・ウェグナー氏による「シロクマ実験」という著名な心理実験があるらしい。

 

アメリカの心理学者であるダニエル・ウェグナーは、以下の記憶力を試す「シロクマ実験」を行い、その説明のために皮肉過程理論を提唱した。

 

・A・B・Cの3つの実験参加者グループを用意する。
・すべてのグループにシロクマの1日を追った同じ映像を見せる。
・Aグループの参加者には、シロクマのことを覚えておくように言う。
・Bグループの参加者には、シロクマのことを考えても考えなくてもいいと言う。
・Cグループの参加者には、シロクマのことだけは絶対に考えないでくださいと言う。
・一定の時間が経ったあと、実験協力者に映像について覚えているかを尋ねる。

 

この実験において、最も映像について詳しく覚えていたグループは「絶対に考えないで下さい」と言われたCグループであった。

 

――Wikipedia「皮肉過程理論」より

 

往本は工場長の指示であの日目撃したシロクマについて調べはじめますが、粒山やうみみずをはじめまわりは動くシロクマについてどちらかというと否定的で、状況としては往本はCグループの心理状態だったのではないでしょうか。否定されることで結果的により強くシロクマを意識してしまう。

 

そして読者はどうでしょう。だんだんと剥離していく物語の中で「あれ、そういえばシロクマどうなった?」と常にどこかで考えてはいませんでしたか?往本越しに、読者もまた、本書のシロクマ実験に知らず知らずのうちに迷いこんでいたのかもしれません。

 

 

 

往本について

最初、往本おうもとという苗字は後述するループ説=復という意味でついたのかなと思ったんだけど、「往」という字は本来「ゆく,いってしまう」の意とされていて、つまり、この一文字だけだと一方通行の意味になる。それで今度は「本」のほうを調べてみると「ものごとのはじまり」。なるほど往本というのは自分という存在やこの世界(工場)の起源に迫る主人公としての意味合いでつけられたのかもしれない。ちなみに「往本」という苗字は実在して約10名ほどいるらしいけれど読みかたは「ゆきもと」。

 

 

 

粒山について

全国に約20名ほどしかいない珍しい苗字。それはさておき、往本が訴えるあらゆる違和感を基本的には否定する粒山は(この世界にとっては)模範的で、その姿にはいっそう、彼がMK部からあらかじめ用意された〈往本をこちらの世界に戻すためのアイテム〉のひとつだったという印象を受けます。

 

砂山のパラドックス

粒山という苗字を見たときふと思い出したのは〈砂山のパラドックス〉という思考実験でした。砂山から砂を一取ったとて砂山は砂山である。では、それをくりかえしていったらいったいどこからが“砂山”ではなくなるのか――。この“境界”の定義は先に引用したうみみずの言葉とも構図は似ている気がする。どこからが本物なのか。どこからが自分の証明になるのか。

 

シーシュポスの岩

ちょっと強引な話ですが、この砂を岩に変換すると今度は〈シーシュポスの岩〉という神話に思い至る。神を欺いた罰としてシーシュポスは大きな岩を山頂に運ぶよう命じられるんだけど、あともうちょっとで山頂というところで岩は底まで落ちてしまい、これが永遠につづく。日本でいうところの賽の河原。永遠の徒労。

 

さて、(さすがに考えすぎだと思うけれど)シーシュポスの岩までを含めて「粒山」という苗字をあえて登場人物に使ったのであれば、粒山とは往本にとっての砂粒であり岩の象徴。往本はこの物語をこの世界で延々とくりかえしているという可能性、ループ説も考えられませんかね?

 

フェッセンデンの宇宙

なんらかのきっかけで、往本が動くシロクマを発見してしまった今回のようなバグが発生し、真相にたどりつけそうなところで、別の大いなる意思(MK部)によってふたたびシステムの一部に組みこまれる。あるいはそれは往本に限らなくていいし、そうなると、あの失踪した部長でも殺された工場長でもいいわけで。この閉鎖的で残酷な工場という小さな世界が、先に言及したエドモンド・ハミルトン『フェッセンデンの宇宙』を彷彿とさせるってわけ。

 

しかしそうした生命を単なる実験材料だと考えるフェッセンデンは、故意に惑星規模の災害を引き起こし、興味本位に大殺戮を繰り返す。

 

――Wikipedia「フェッセンデンの宇宙」より

 

往本の身に起こったバグさえ、誰かの意図したも・・・・・・・・・、だったりしてね。

 

 

 

うみみずについて

とりあえず「うみみず 哲学」で検索してみたらなぜか「哲学ミミズ」が出てきた。てつがくぅみみず。うみみず。いや絶対そんなわけない。手塚国光は関係ない。

 

ホイーラーの遅延選択実

気をとりなおして「うみみず」という苗字を調べてみるけれど、そもそも「うみみず」と読む苗字はたぶん存在しないようで。うーん。しばらく考えてるうちに、うみみずって下の名前出てきたっけ、と思って読み返したら「未波」とあって、そっち方向でアプローチしてみたらこんなページを見つけてしまった。

 

『観測方法AとBがある。観測方法Aを使うとヘリウム原子は波になる。観測方法Bを使うとヘリウム原子は粒子になる。よってヘリウム原子は観測方法によって波になるか粒子になるかを変えている。ならば観測方法Aを使ってヘリウム原子が波になっている途中に観測方法Bに切り替えてみたらどうなるだろう。結果、ヘリウム原子は観測方法Bと同じく粒子になった。最初は波だったのに途中で粒子に変わるということは実験の内容から考えてありえない。ヘリウム原子は最初から粒子だったはずだ。だが本来なら最初は観測方法Aだったから波だったはずだ。これでは辻褄が合わない。だが現在が過去に因果的に干渉していると考えると全てが丸く収まる

 

出典:http://sign.jp/df2c49f8

 

詳細は出典リンクから各々読んでもらうとして(あんまり理解できていない)、注目したいのはこの実験においてキーとなるヘリウム原子が観測方法によって波になるか粒子になるかを変えている」という記述。未波。だ波になっていない状態。波と粒子。うみみず(未波)と粒山がつながった。

 

そもそも出典元の記事で言及されている〈ホイーラーの遅延選択実験〉とは端的にいえば「現在が過去を決定するという仮説を示す思考実験」のことだそうです。往本もまた粒山やうみみずのように観測方法によって変化するヘリウム原子の象徴化であると考えると、往本はまだ粒子状とも波状とも確定していない状態のそれであり、観測者--それはMK部であり読者とも言えそうですが--によって抽象的にいえば粒山のようにもうみみずのようにもなれる、ということなのかもしれない。粒山とうみみずの主張はことあるごとに対照的に描かれるけどそのどちらかに加担することのない往本の中立な立場もまたそのあらわれなのかもしれないなと。

 

ミミズの知性

哲学にあたりをつけて「うみみず」を検索しているんだけどなにも引っかからなくてねー、とこのあいだ友人に相談したら「うみみずのセリフは“倫理”なのでは?」と指摘があって目からウロコを落としながら調べてみたら、今度はこんな記事を見つけました。

 

ダーウィンはまさにそのような広い脈絡で「理性」や「知性」の現象を問題にし,ミミズの知性から人間の理性までを論じたのである(後略).

 

出典:http://www1.kcn.ne.jp/~h-uchii/DE.6-10.html

 

哲学ミミズじゃなくて倫理ミミズ、いや、知性ミミズだった。詳細は出典リンクから以下略。ダーウィンというのはいわずと知れたイギリスの自然科学者ですよね。なるほど、動物に対する主張が印象的だったうみみずのキャラクターにも符号する。

 

どうしても「ミミズ」というワードが使いたくて、イレギュラーを承知のうえであえて「うみみず・・・」という苗字を使ったのだとしたら、ははぁ、ひらがなであることも納得。

 

 

おわりに

以上です。哲学とか思考実験、心理学は本でちょっとかじったことあるけど、まさか量子力学とかダーウィンが云々なんて書くことになると思わなかったので中途半端な記事になってしまいました。学がなくてごめん。読めば読むほど、考えれば考えるほど、調べれば調べるほどなにか発見がある作品だと思うので、本書を読んでなにか疑問を持った人たちがここを手がかりに新たな発見をしてくれたらうれしいです。私も再読した折になにかまた発見があったら考察を追加しておきます。それでは。

 

参考にしたサイト一覧

皮肉過程論 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%AE%E8%82%89%E9%81%8E%E7%A8%8B%E7%90%86%E8%AB%96

 

フェッセンデンの宇宙 – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%AE%87%E5%AE%99

 

過去は変えられる?思考実験『ホイーラーの遅延選択実験』が実際に行われた – 量子における『観測』│sign
http://sign.jp/df2c49f8

 

ダーウィニズムと倫理
http://www1.kcn.ne.jp/~h-uchii/DE.6-10.html

 

 

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。