物語としてあまりに救いようがなく文字表現という根本的な観点からもほとんど理解できない小説と出会う。内容云々より、おそらくこれが作品として世に出たことの意味を考えなきゃいけない本なのだと思った。

 

今じゃすっかり共感至上主義みたいな世界になってしまったけど、自分が共感できるものだけを選んで相手から共感ばかり求めるような生きかたは、じつは得られる幸福感と得るための苦労がまったく釣りあっていない。変えられない事実のほうに自分を引っぱりあげてその違和に進んで関心が持つのがきっと賢い人間のやりかただ。

 

けどまぁ、私は共感も迎合もできないから、創作の世界ぐらいはせめてみんな幸せにしてやれよと思ってしまう。

 

それは、たとえ独りよがりの幸福感であってもいい。

あまりに弱々しい希望の光でもいい。

 

フィクションを理由にして簡単に人間を生贄に使わないでくれ。

 


 

冒険家・春間豪太郎は、小学生のとき子供心に母親の関心を引こうとIQ136の知能を活かして古文単語帳を1冊丸暗記して彼女の前で披露してみせたという。このエピソードになにかシンパシーのようなものを感じた。自分にとっての創作と似ているのかもしれない。

 

私もまた、自分にできることで、誰かに喜んだり楽しんだり褒めたり認めたりしてほしかったのかもしれない。そして、誰かというのは今も変わらず自分自身なのである。

 

春間の母親は目の前で暗唱してみせる息子を「気持ち悪い」と言った。一方、私の母も17年間娘の創作物に一切の興味がない。それでも私は、書いているときだけ唯一、そんな子供じみた健気な自分を愛すことができた。創作が自分にとって娯楽でも芸術でもなくひたすらに対話なのだとしたら、もうちょっとだけ、がんばってみたい。

 


 

インターネットで見つけた「小説はあなた一人でつくりあげるものではありません!」という言葉に猛烈な違和感を抱く。他者に意見を求めることも含めて、基本的に、小説は一人の意思決定でつくりあげるものだと思うのだ。少なくとも小説を文章表現という芸術と捉えるなら。

 

呼びかけは「プロの小説家には編集者がいるように」などとつづいた。なるほど、自分がプロの小説家になりたくない理由はこれだなと腑に落ちた。

 

正直、私は創作に関して他人の指図を受けたくない。創作はあくまで自分の内面世界との対話であり言語中枢への挑戦だから。自分にとっての創作の立ち位置がだんだんわかってきた。小説を書きたいのではなく、私はただひたすらに、文章を極めたいのだな。小説は手段の一つだった。言葉がなにをどこまで表現できるか、何文字・何語肉づけは可能か、逆に削って削ってをくりかえしたらなにが残るのか。その挑戦を、試行錯誤を、おそらく芸術として形に残したいのではないか。

 

だとすれば、一途に求めるべきはごく個人的な手ごたえか。

 

これは「ドラえもん、noteで全然スキがもらえないよ~」とか言ってる場合じゃない。

 


 

SNSを、ティッシュ配りのようなものだと思うことにする。

 

これを勝負だと思ってしまえば、どこで配るか・誰に配るかを知っている要領のいい人間が勝つし、それはしたくないというのであればもちろん成果は限られる。ティッシュは悲しいほどに消耗品以上のなにものでもなく、律儀に礼など言いにくる人は、逆に奇特である。それでいて、今自分はなにかすごいことを成し遂げたぞ!という気になるのは、奇特な人間ではなく、ティッシュを配る側の人間なのである。

 

数よりも、質よりも、あくまで私にとって重要なのは自分が「配るときは惜しげもなく。もらったときには礼を言って、もらったティッシュはちゃんと使いきる人間でありたい」と考えていることなのではないか。

 

無自覚に奇特な、誠実という静かな狂人を志せ。

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。