随想、WOMCADOLE『黎明プルメリア』について
2020年5月19日
初夏の候、友人に勧められてWOMCADOLEのアルバム『黎明プルメリア』を聴いてみたらとてもよかったので、衝動のままに感じたことや思ったことなどあれこれ考察してみました。全13曲、長くなりますが興味がありましたらぜひ読んでいってください。
1.FRAG
順風満帆、ということわざがあるとおり船は物事の進行の象徴でもあります。
余計なものが存在しない海上において見上げる位置にあるものは空。「混沌」「淀んだ」というキーワードの暗色のイメージから、私的には夜空を想像しました。
〈めどなしの夜〉という昔話をご存知でしょうか?曰く夜とは神様の用意した大きな黒い布で、最初これが木々や鹿の角などあちこちに引っかかったせいで、今ではたくさんの穴が空いている。星とは布で隠したはずの太陽の光が穴を通って差しこんだ光である、と、雑に言えばそんな話です。
「旗を掲げろ」とはつまり、この穴をこちらからつくってやろう、という宣誓のように聞こえます。
描いている未来のぶんだけ旗を掲げろ。旗は神様の布も突き破って、そこには星(タロットカードにおいて〈星〉は希望、将来性、可能性)ができる。どれほどに淀んだ世界であろうと、一人ひとりが未来を描きそれを旗にして掲げれば、淀んだ混沌は星の輝く明るい夜へと変わるだろう――。
誰かに用意してもらった船。誰かに用意してもらった航路。順風満帆はときに「順調すぎてこわい、嫌だ」という感情を生みます。それは自分以外の存在の作為を無意識に感じるからなのでしょう。誰かになにか用意してもらえばもらうほど世界は「混沌」を極め、「淀」み、進むのが難しくなる。船というものは構造的にもともと不安定であることがあたりまえです。だから本来は「不安定な方が丁度いい」。皮肉な話ですね。
最後に、個人的にこの曲で一番いいなと思うのは天に旗を掲げるとき「中指を込めて」いるところ。これが「中指を立てて」だったらありきたりだし、かといって、「帆を立てる」だけではきれいごとに聞こえてしまう。帆は立てるけど内心しっかり中指も立ててるぜ、という飾り気のない言葉選びが印象的な曲でした。
2.黒い街
「FRAG」が外側の物語だとしたら、「黒い街」とは内側の物語だと思う。
旗を掲げろと宣誓し自らその先陣をきった「FRAG」の“僕”が「黒い街」における「何処かで誰かのために動いてる」「君」だとしたら、この曲の“僕”とは、今なお「淀んだ世界」の内側で暮らしている人物なのではないでしょうか。黒とは神様の用意した布であり、まだ星のない夜は暗く、“僕”は「君」を知ってはいても見ることができない。
帆を立てて船を出した「君」に対して“僕”は「クシャクシャにした紙飛行機」を外に投げています。船と飛行機、海と空、対比ですね。じゃあ街に留まったままの“僕”は悲観されるべき人間かというと、それは違う。
“僕”もまた走っているのです。「数年後に輝く世界」を「FRAG」の“僕”が見据える星の輝く明るい夜だと解釈するなら、その夜を、世界を見るために、二度とない一度きりのこの命を使って走っている。船出することはできないけれど、この、黒い街の中で。
2曲を対にして考えたとき、見えてくるのは2人の“僕”とそれぞれの世界に対する闘いかたです。そのどちらか1つが正解ではなく、人それぞれに正解がある、それを肯定し鼓舞してくれるのが『黎明プルメリア』の世界観なのだと思います。
3.wariniawanai
素直に聴けば男女の恋愛観の相違を歌った曲なのかな。「私」と「僕」、主語の違う人間が登場するので男女の会話を俯瞰して見ているように想像しがちですが、歌詞の構成を分析してみるとじつは徹9割強“私”を視点にした物語なんじゃないかなと。
まずAメロとBメロ、“私”の主張です。自分の正当性をアピールしながら相手を非難するという話しかたは女性特有というより捨てられる側に働きがちな心理といったほうがいいかな。まるで檻の中で飼い慣らされているみたいと言っておきながら自分もまた相手を「捕まえたい」というところが、なんというか、趣深いですよね。「君との将来を考えたい」とのことなので、目には目を、歯には歯を、檻には檻を……“私”が彼を捕まえるため用意している檻とは「結婚」という枠組みなのかもしれません。
サビは一転して主語が「僕」になります。なりますが、おそらく視点は変わらず“私”のほうでしょう。というのも、「割に合わない」という言葉があえてローマ字表記で「wariniawanai」なんですよね。
小説には、本人が理解していない単語をあえてひらがなやカタカナで表記するというテクニックがあります。たとえば高校時代クラスに高師さんという女子がいたのですが、これが「高師」という苗字だと知っていないと、初対面で私は「タカシさん」と脳内変換するわけです。
話を戻して、つまり「wariniawanai」とは“私”にとって意味がわからない想定外の言葉だったのではないでしょうか。
割りに合わないって、なにそれ?私たちの関係ってそういう損得勘定だったの?ていうか損得勘定だったとしても得してるのって君のほうだよね?だって私こんなに尽くしてきたんだよ?私ばっかり好きだったの?なにそれ、なによそれ、なんなのよ――。
このとき、“私”にとって理解できないのは「割に合わない」の意味そのものではなく、彼がその言葉を使ったという事実です。そしてサビ中しつこくリフレインしたあと間奏明け。イヤホンを差して歌詞をよく確認してほしいんですけど、ここ、左右で“私”と相手が一気にまくしたてるちょうどケンカの最中なんですよね。文脈的には、“私”が恋人ではなく単なるストーカーに見えるのもおもしろい。その場合サビでリフレインする「wariniawanai」により狂気性を感じるし、いずれに解釈しても“私”の今現在の立場の危うさを味わえるスリリングな曲です。
ただ、もし『黎明プルメリア』が人それぞれに正解があるのを肯定して鼓舞してくれる世界観で統一されているとしたら、ここで利いてくるのが最後の「お前と僕じゃ」だと思います。ここだけ、とくに最後の最後「じゃ」だけ低音で歌われています。このときはじめて視点が“僕”側になっていて、ここから自分を束縛する女や世界に対する彼の闘いがはじまるとも考えられます。じつはそれを歌った曲。枠物語。小説っぽい解釈の仕方をするとね。
4.深海ゲシュタルト
ニール・シャスタマンの小説で『僕には世界がふたつある』という作品があって、精神疾患の少年の闘病と成長を描いた物語なんですけど、主人公・ケイダンは心の中に〈海賊船に乗って世界で一番深い海を目指す〉という世界を持っているんですね。このことからもわかるとおり、深層心理とは深海とかなりイメージが結びつきやすい。なので「深海ゲシュタルト」も多分に漏れず深層心理をテーマにした曲なのだと私は思っています。
自分の内へ内へと閉じこもるのは傍目から見れば心配ではありますが、とても大切な時間。一度うつ病をやっている私の実体験だけど、現代社会はあまりに情報過多で、いっそ一切の情報を遮断してしまったほうがうんとやりやすいときって絶対ある。
ゲシュタルトと聞けば誰しも連想するのがゲシュタルト崩壊。実際、サビで「深海ゲシュタルトは崩壊する」と歌われています。深海へと沈んでいく浅い(=未熟な)自分。しかし、この深海であるときゲシュタルト崩壊は起きる。浅かった自分は深みを身につけ、光の届かない場所で自分こそが光となり、閉じた両目は誰よりも冷徹に世界を見つめている――。
浮かびあがる方法を考えれば考えるほど沈んでいく身体。けれど、浮かびあがることだけが本当の幸せでしょうか?「深海」という言葉に付随しがちな息苦しさがこの歌詞にはありません。代わりに、自らが光となって深海で生きていく道がこの歌詞には提示されている。
私は、考えすぎる自分の性格がときどき嫌になります。今だって、きっと誰かがこの考察を読んで妄想乙wwって笑ってるんだと思ってしまう。だけどそれと同じくらい、誰かがつくった1曲の歌詞にこれだけの想いを綴ることができる、その才能が愛しくもあるのです。
私の深海にも、きっといつかはゲシュタルト崩壊が訪れる。そのとき自らが光となって深海に沈んだまま生きられるように、私は考えつづけよう。考えすぎるくらいに。
5.ライター
個人的にはすごく神話を連想させる曲なんですよね。「鍵をかけたままで出てこない」のは天岩戸隠れで、この太陽が出てくるようにがんばるのが日本神話だけど、出てこないなら「暗闇照らすのは太陽なんかじゃない」、ライターで、自分で自分を燃やしてやるぜ!っていう。「火をつけてくれ」「燃やしてくれ」言葉自体は能動的だけど、ライターは言わずもがな自分の意思で火をつけるための道具。結局ちゃんと自分で行動してる。そこが弱者のようでやっぱり強者で、ロック。
さて、ではいかにして人間が今日ライターを使って火をつけられるようになったかというと、プロメテウスです。
諸々の説明は蛇足になるので省きますが、あるとき、ゼウスは人類から火を取りあげてしまいました。哀れんだプロメテウスという神は、天界から火を盗んで人類によこします。このとき、ゼウスが「人間に再度火をわたしたらあいつらそれで武器をつくって戦争するぞ!絶対!」と予言したにも関わらずプロメテウスはそれでもなお人間を信じてわたしたっていうからエモい。結果、やっぱり人間は戦争してプロメテウスは3万年生きながら肝臓を鷲についばまれるとかいうわけわからん刑に処されたけど。おい人類。
こうして、人類はふたたび火を取り戻しました。ライターで火をつけられるのもプロメテウスのおかげ。だから、彼のように人を信じて自分を信じて、誰かを傷つけるためではなく己の弱さを燃やすための火を灯して生きていきたいな。
6.NANA
NANAなのに6曲目なんですよね。
数字の7じゃないとしたらじゃあ「NANA」ってなんのことかというと、〈人間になりきれない人間〉のことなのかなと思いました。
出だしからまず「連れ去ってくれよU.F.O」。つまり、“俺”は人間のひしめくこの地球が肌に合わないと思っているわけです。未来に対するあまりの興味のなさに「まるで貴方人間ロボット」まわりからそんなふうに揶揄される始末。
ところで、人間を人間たらしめる重要な要素の1つがDNA。ここから「D」がこぼれ落ちると、さて、「NA」になります。「NANA」とはじつはこの「NA」、つまり〈重要ななにかが欠落した人間〉を指しているんじゃないでしょうか。
コーラス部分を聴くと、「ナーナナ/ナナ/ナナナ/ナナナ/ナーナナ/ナナナ」と歌っているのがわかります(ゲシュタルト崩壊!)。
NA-NANA / NANA / NANANA / NANANA / NA-NANA / NANANA
お気づきですか、キャッチ―な「NANANA」のコーラスの中に1つだけ、いや、1人だけ「NANA」が紛れこんでいることに。本当はみんながなにかしらを欠落している。欠落した同士が群れになれば誰しも凡人。異常なふりをしたただの紛れ者。
「私は一体何様?」“俺”から語りかけても、神の返事は「人間様」。こんな世界で凡人であることは、気持ちいいけれど、苦しい。いっそおまえは宇宙人だとわかりやすく疎外されたほうがましだ。でも、この身体に流れる血を解析されて何者かはっきり診断されてしまうのもやっぱり――。
どっちでもいい。
誰でもいい。
なんでもいいから俺をここから連れ去ってくれ!
そんな、人間になりきれない人間の歌。……かもしれない。
7.R-18
タイトルが「R-18」で、「バット」で「エグって」「興奮を覚えました」と。なるほど、清々しいほどの自慰の肯定!異質なように見えて結局このバンドのこのアルバムの曲なんだなって思えるのは、やっぱりその肯定しているってところなんですよね。
自慰行為について歌ったものは他のアーティストの曲にもありますけど、たいていこの手の曲には音や歌詞、歌いかたに惨めさやうしろめたさがつきまとうもの。悪いことじゃないのにね。性欲とか生理現象ですよ、普通に。
少子化を憂いて騒ぐわりにはセクシャルをとことん嫌悪するって歪な世の中だなぁ、と思ったりもします。結局どうしたいの?っていう。大人が恥ずかしがって必要以上に隠すから子供が正しい知識を充分に得られないまま諸々悲劇が生まれてしまうんじゃないか、っていう。「狂ってるのは俺の方じゃなくて世界の方さ」本当にね。
ここまででも充分考察ははかどるけど、最後「天才なんじゃないかと思ってしまった」と歌っているので、性的な自慰行為だけでなく、ナルシズムとしての自慰行為の肯定とも捉えることができるんですよねこの曲。
私も常日頃感想とか考察とかいろんなコンテンツを書いてますけど、自分が読みたい話を書いてるんだもん、読んだらやっぱりめちゃくちゃおもしろいんですよね。「天才なんじゃないかと思ってしまった」ことなんて数えきれないほどある。けど、コンテンツというのはまず自分がいいと思えないと発信なんてできないしさ、ね、バットどんどん振ってこ!
あと6曲、フルスイングで考察していきます。
8.kamo river
本当に単純な男さ
わかるー!恋は駆け引きとか言う人もいるけどさ、好きになればなるほどどんどん単純になっていく生きものだよね、私たち。笑いかたとかだんだん気どった「うふふ」が「うへへ」になってくる。油断しっぱなし。
「ロックは僕らを近づける」音楽が共通の趣味だったんですね。ところがサビ明け2回目のAメロでは「ロックは僕らを遠ざける」。“僕”はもしかしたら今バンドとかやってるのかもしれません。単純だから、ロックを聴くのが好きで、好きが高じてロックをつくる側になって、だけど単純だから、夢中になるあまり他のことがどんどん疎かになっていく。
鴨川は、定番のデートスポットらしいですね。で、不思議なことにカップル同士、等間隔に離れて座るとか。夕方18時、“僕”が見ているのはそんな光景なのでしょう。かつてはきっと、その光景の中に自分たちもいて。
鴨川。忘れたくない、夕方18時に会いたい人がいること。サビでは“僕”のこの想いが何度もリフレインします。
好きなことを選んで、好きな人を選ばなかった。それが正しいことだったのかはわからない。だけど「君」のことをこれからもずっと忘れたくないんだ。たとえ正しくはなかったとしても、選ばなかったということに、せめて意味はあったと思いたいから――。
と、妄想するとエモい(目から鴨川)。
あー、もしかして「鴨川」ではなくあえて「kamo river」なのって、「kamo」が「~かも」の役割も担ってるからなのかな。選んでいたらああなっていたかも。選ばなかったらこうなっていたかも。違うかも。かも、かも、かも。リフレインする“僕”の「かも」は音もなく川を流れていく。
と、妄想するとエモい(目からkamo river)。
9.今夜僕と
WOMCADOLEには「今夜君と」って曲もあるらしいんだけど、もしかして2曲対で考えるべきなのかな。とりあえず『黎明プルメリア』に収録されているのは「今夜僕と」のみなので、まぁ、あくまでこちら単体で考察していこう。
リズムが完全に盆踊りだから「踊りたいよ」のくだりやっぱりあのモーションで踊りたくなるよね。という蛇足は置いといて、「モノクロ」といえば「黒い街」。なにか1つ、人でもモノでも〈好き〉を見つければたちまち世界は色づいていく。「kamo river」の“僕”に限らず、人間とは誰しもそんな単純な生きものなんですよね。曲調急に陽気になったな、と思いきやじつはアルバム通してどの曲も根っこはつながっているんだと思います。
どうすりゃいいの、と迷っている人ほど案外明確な答えを持っているものです。このとき”僕”を含め彼らが求めているのはきっとアドバイスではなく後押し、なんだろうな。曲名が「今夜君と」ではなく「今夜僕と」=主体的かつ能動的であることからもそれは強く感じられる。
聞き分けのいいふりをして「どうすりゃいいの」と訊いてはみたけど、本当は君と踊りたいよ、キスがしたいよ、どこまでも行っちゃいたいよ。だけどまだそうすることができないんだ。――そんなふうに聴くと、やっぱりこの曲にも寂しさ・苦しさはありますよね。
10.LULLABY
ある思考実験について解説した次の文章を読んでみてください。
わたしたちが過去の自分自身(前世の自分ではなく)を振り返るとき、同じ人物だという感覚が持てるのは、ある程度、心理的なつながりと継続性があるからだ。その人物だったことを憶えているし、その人物がしたことも、持っていた信念も憶えている。その人物が成長して、現在の自分になったという感覚もある。
――ジュリアン・バジーニ『100の思考実験』より
肉体や記憶の継続性が自己の証明になりうるという話は睡眠に置き換えても成立します。昨日の私がねむって、起きて、今日の私は昨日までの私を憶えているので私は私であるといえるわけです。ただ、このときもしも明日の私が今日までの私を憶えていなかったら。……睡眠とは、じつは確率的な自殺ともいえるのではないでしょうか。
①破局による離ればなれ
②死別による離ればなれ
「LULLABY」の歌詞はこの2通りの解釈ができると思うんですけど、考察を難しくしているのが最後の「遠くで生きる君に」という言いまわしで、うーん、私としては「君」が生きているにしてはちょっと不可解な部分があるように感じるんですよね(「肩を鳴らす4拍子」とサビであえて呼吸に着目し生命を意識させるのも気になる)。
「思い出になんかしたくない」ことを言ったら「馬鹿にされる」んですよ。これが、僕は別れたくないけどそんなことを言ったら馬鹿にされる、って話なら「君」という存在や”僕”の心情を表現するにあたってこんな曲調では歌わないんじゃないかなぁ。寂しいけど優しい感じもあるよね、メロディ。
「もういっそこのまま僕は」と思ったあとは、「君の居ない世界を生きて行く」はずが「君のいる世界に行こう」になっちゃってるんですよ。起きていることよりもねむることに積極的なんですよ。「真夜中のパレード」がもう葬列にしか思えません。
天国で生きている「君」にいつかまた再会できるそのときまで、「君」のLULLABY=子守歌を聞いてねむる疑似的な自殺をくりかえしながら待っているよ。
まぁ絶対に深読みしすぎなんですけど、仮にそういう歌だったとしても、疑似的なものに留まってあくまで「待つ」というところに聴く側としてはいくらか希望が持てますよね。人間は誰だってねむる。そして、いつかは消える。
まぁ、絶対に深読みしすぎなんですけど。
11.カナリア
カナリアを漢字で書くと「金糸雀」。読んで字のごとく鮮やかな黄色の小鳥です。例にもよって世界には色がないので、自身の黄色はより鮮明で強烈に見えることでしょう。「生きてる気がしない」のはその疎外感にも起因するかもしれません。
さて、曲名は「カナリア」ですが“僕”とは実際にカナリアなのかというと、比喩でしょう。「此処はまるで鳥籠」ということは本当に鳥籠で飼われているわけではなさそうだし、個人的にこれはと思ったのが、カナリアの語源がラテン語の「犬」なんですよね。犬には主従のイメージがつきまといます。
要は、社会に飼い慣らされる私たち人間を品種改良された愛玩動物としての種であるカナリアになぞって歌っている曲なのかなと。Cメロの「怖いのは自分自身を受け入れる事」「それをしたら最後なんだ」が刺さります。カナリアであるがゆえに己の鮮やかなその黄色こそが「色付いた不安」であり、だから、これを捨てて空を駆けるよ、と。
人間に飼われるために品種改良されたカナリアにとって外は危険もあるでしょう。それでも、この世界ではあまりに鮮やかなその色を捨てることによって得られるものも多く、大きいに違いありません。純粋に曲として聴いても勇気がわいてきますが、上へ上へ、というイメージが宮沢賢治の『よだかの星』的でもあって物語性も◎。
12.ミッドナイトブルー
私の読解力にもっと透明度があればね、きれいな失恋の歌と考えることもできたんだろうけど。でも「LULLABY」の歌詞考察して露見しちゃったとおり、私の読解力、濁ってるから。むしろ全然意図されていない方向に思考飛ばすのが楽しいというか?逆に?
長い言い訳になりましたが、以後、「ミッドナイトブルー」とは〈アーティスト側の気持ち〉をあらわした曲なんじゃないかという持論を展開します。
たとえば「聞こえるはずのない旋律」は構想段階の曲。もちろん物理的に聞こえるものではありません。これを、テーブルの上の紙に書き留める。歌詞でも可。「白紙に戻した」というのはつまり一度曲なり歌詞なりをボツにしたあと、と考えられます。
この場合「君」が誰なのかというと、自分たちのつくった曲を聴く〈誰か〉です。リリースという形で発信することはできますが、曲がたしかに〈誰か〉に届くか、はアーティストがすべてを把握しきることはできません。そういう意味で彼らのつくる曲は「片道切符」ともいえるでしょう。
ここまでの歌詞を読みこんできて、私は、WOMCADOLEとは肯定するバンドなのだと解釈しています。自分の中にあるどんなに惨めな感情も肯定してくれるから、きっときれいごとだ、と疑ってしまうことすらある。だけど「間違いはない、本当さ」。優しい。あとで(僕たちの曲に)「問題はない?」「大嫌い?」って訊いてくるところもgood。
「君」が忘れないように“僕”は音と言葉を紡ぎつづけるのだけれど、私たち聴く人間というのは薄情なもので、曲に関しては節操もなくあっちこっちに好きになってしまうんですよね(「邪魔が多すぎるんだ」)。そこにどれだけの覚悟があるかなんて知りもせず。
でも、そんな私たちすら肯定してくれるWOMCADOLE。
強さと、優しさがすぎるバンド。
13.黎
最初「葱」に見えて、この曲ネギ要素あった?と思ったら「黎」でした。12曲の歌詞考察を終え、3日目、なにを隠そう私は疲れています。
はたして「黎明期」と言う以外に「黎明」という単語を使うことってあるんだろうかとも思うけど、それはさておき「黎明」とは夜明けのこと。アルバムを聴き終えてふたたび現実へ立ちむかっていく私たちにふさわしい言葉のように感じます。
アルバムタイトルが『黎明プルメリア』なので、この「黎」が表題作=アルバムを象徴する曲と考えていいでしょう。先の「ミッドナイトブルー」同様、「あなた」を自分たち聴く人間に当てはめるとさらに歌詞が響いてきます。「この街を抜け出そう」は「FRAG」や「黒い街」「カナリア」が思いだされますね。「闇を照らす光」は「深海ゲシュタルト」、「灯した火」は「ライター」でしょうか。「花束」というのはつまり、これら13曲を束ねたこのアルバムのことだと考えられます。
プルメリアは寒さに弱い花。日本での越冬は難しいらしい。加えてハワイなどでは神聖な花とされているそうなので、そんなプルメリアの花束が、じき冬がくる秋の肌寒い朝、あなた(このアルバムを聴いている人たち)の冷えた手に届くように、という歌詞の重みがぐっとくる。
ハワイなどで見かけるレイにもプルメリアが使われているそう。あーなるほど、曲名が「黎明」ではなく「黎」なのはこっちのもじりもあるのかも。
花言葉は「恵まれた人」。このアルバムを聴いたあなたのこれからが恵まれた日々になりますように。そんな祈りがこめられているのだと考えながら聴いたら、イヤホンを外して〈『黎明プルメリア』の世界にいた私〉が死んでも、現実の私は今日も1日こんな世界でまだがんばれそうな気がする。