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半年前くらいのことですが、
ボードゲームで遊ぶ集まりに参加したことがあります。
ボードゲームといえば、将棋、チェス、あとはオセロ、
人生ゲームかモノポリーくらいしか遊んだ記憶がなく、
当時会場に行ったときは結構な衝撃を受けたものです。

 

おもしろいのですよ。

 

自分がイメージしたものを駒や粘土(!)を使って
他のプレイヤーに伝えて答えてもらうゲームとか、
ボードを1つの大陸に見立てて土地を奪い合って
自分の国を造りあげていくようなゲームなどなど。

 

中でも前者のうちの1つ〔コンセプト〕が楽しかったです。
あまりにも気に入ったので後日自腹で買ってきたほどです。

 

集まりをきっかけに、
今ではむしろ自分からおもちゃ屋に出向いて
ボードゲームを物色するくらい興味津々です。

 

今回はそんなボードゲームのおはなし。
宮内悠介氏『盤上の夜』読了しました。

 

 

以前mugitterでも感想を書かせていただいた
エクソダス症候群』の宮内氏のデビュー作。
盤上遊戯・卓上遊戯が題材というのに惹かれ、
たまたま書店で平積みを見かけたので読みました。

 

なんというか、
雲か霞のような…つかみどころのない印象。
小説というよりノンフィクションを読んでいる感じ。

 

文章は淡々としていて小難しくもあり、
自分なりの考えをまとめながら読むと
読了までに1週間かかってしまいました。
対して登場人物はそれぞれ設定や性格が
個性的なのでそういうギャップというか
落差?に疲れてしまう人もいるかもしれません。

 

ただ、各話読み終えてみると、
形容しがたいなにか「すごい」ものが残る。
自分の理解が追いついていないだけかもしれませんが、
“なんだかわからないけどすごい”ことだけわかって、
この例えがたい感じがまた作品の魅力…なの、かも?

 

万人に諸手を挙げてオススメとはいえませんが、
あくまで個人的な意見としてはおもしろかったです。
読んで後悔するというようなことはありませんでした。

 

 

以下、各話の感想です。

 

 

 

盤上の夜:

 

四肢を失い、
囲碁盤と感覚器を繋いだ女流棋士のおはなし。

 

四肢を失った女性という人物設定のインパクト。
生きていくために碁を選んだという背景の重さ。
碁石を口にくわえて井上と戦うシーンの生々しさ。

 

そして、
将棋という盤上にできあがる1つの“世界”の戦を
まるごと自分の身体の一部にしてしまうという覚悟。

 

おそろしい。
もはやおそろしいですよこの設定。

 

これだけのものを詰めこみながら、
文章とあのラストシーンのなんと静かなこと。
しかも彼女自身の口から直接語られる言葉は
あまりにも少なく「わたし」の目が追いかける
彼女の生きざまの記録だけで訴えてくる…。

 

とんでもないものを読んでしまった、と思いました。

 

 

 

人間の王:

 

完全解が見つかったことで歴史に幕を下ろした
チェッカーとその頂点にいた元王者のおはなし。

 

ゲームという形のない1つの文化が
機械の登場により終焉を迎える様子。
それがまるで生きものの老衰のようにさえ見えて。

 

山を登った先にある頂上の光景と感動は
実際に山を登らなければわからないように、
棋士であれスポーツ選手であれアイドルであれ、
その世界で生きる者にしか見えないものがあり、
それは外野にはつねに一部分しか伝わらない。

 

知っているということと、
目の当たりにするということは別です。
本質的には同じでも、
個体の体験として見ると、
それらはやはり別の事柄なのです。

 

何十年か先、
機械が人類を超えるときがくると言われています。

 

彼ら(機械)がプログラマを超え、
我々人類の文化が終焉を迎えたときに
彼らに訪れるであろうその強者の孤独。
ここで描かれたその強者の孤独を今は
誰も理解することなどできないでしょう。

 

知っているということと
目の当たりにすることは
別の事柄なのですからね。

 

 

 

清められた卓:

 

麻雀の歴史から抹消された第9回白鳳位戦。
3人の男が“シャーマン”に挑んだある異様な戦い。

 

個人的には1、2を争う好きなおはなし。
収録された中で一番エンタメ性があったと思います。
もちろん麻雀の知識があったほうが楽しめるのでしょうが、
私はほとんどないに等しい知識でも結構楽しく読みました。

 

彼女だけがこの戦いでただ1人まったく別次元の
「なにか」を見て戦っているという奇妙なこの感じ。
すごく気持ち悪いんですよ!素晴らしい!(褒めています)

 

シャーマンなんていわれてはじめは「はぁ?」と
まったくつかみどころのなかった優澄なのですが、
真相を知ったうえで改めて戦いの様子を見てみると
彼女の物語としてまったく別の戦いに見えてすごい。

 

当山君に関しては本当に良かったなと。
ショタコン的にはとても良かったなと。

 

 

 

象を飛ばした王:

 

将棋やチェスの起源と考えられている、
チャトランガをめぐるある少年のおはなし。

 

「清められた卓」と同じくらい好きなおはなし。
私の中では別名〔名言デパート〕といいます。
読書メモもおそらく1番書いたと思われます。

 

たとえばこんな一幕。

 

「あなたへの慰めにと思って取り寄せました。
北方の花で、薔薇というそうです」
(中略)
「でも、名前などどうでもいいことです。
あなたはこれを美しいと思った」
(中略)
生まれや名前などなくとも、花は美しく、尊い。

 

母の言葉、心を受けとって、返す言葉がこれですよ。

 

     人は薔薇ではないのだ!

 

彼の悩み・苦しみが凝縮された一幕でありながら、
我々人類すべてに共通する悩み・苦しみでもあり。

 

なんということでしょう。
小説というよりもうこれ小説風哲学書ですよ。
学生に読ませるべきですよ教科書待ったナシ。

 

人間は薔薇ではないから。
人間は“考えてしまう”から。
事実として理解するだけでなく、
その先にある自分や人の想いまで考えてしまうから。

 

それは人間の強みであるのと同時に、
とても愚かなことなのかもしれませんね。

 

 

 

※以降2編、
※内容が自分の中で上手く消化できなかったため
※ここまでの感想に比べると著しく質が落ちます。

 

 

 

千年の虚空:

 

生理的嫌悪感というか、
不快でしかもなんだかやりきれないという。
どう受けとったらいいのかわかりませんでした。

 

兄は弟が見ている世界を、
弟は兄が生きている世界を、
それぞれ追いつめようとしているように見えて。

 

そんなのってあまりにも悲しいじゃないですか。
おたがいをちゃんと想っているのはわかるだけに。

 

だからどうしてもお姉さんが私ダメでした。
諸々の事情を差し引いても許せそうにないです。

 

 

 

原爆の局:

 

「盤上の夜」に出てきた女流棋士が再登場。
こちらもなかなか受けとりかたがわからず…。

 

作者の意図から外れた見方をしてもよいのであれば、
私はここに小説家の必要性というものを感じました。

 

小説家というのは、
自分の中にあるまったく別の世界のおはなしを
文字にして現実世界の人々へ発信してるわけで。

 

それは盤上という別の世界で戦う棋士たちのその姿を
追いかけて記録しているジャーナリストの“わたし”
の立場と、とても似ているように思えたのです。

 

わたしは引き返してしまったのだ。
わたしだけが、その場のどこにもいなかった。

 

このように葛藤する“わたし”に対して、

 

あなたの書くものは、世界に向け、
英訳されなければなりません。
あなたも海を渡るのです。

 

と返す相田の言葉が印象的でした。

 

 

 

ボードゲームの集まりで主催者の方から、
ボードゲームは決められているルールの他にも
「ローカルルール」といってその場で自分たちで
ルールを作ってもいい、という話を聞きました。

 

決められたストーリーやシステムの範囲内で遊ぶ
テレビゲームに慣れてしまっていた私にはそれが
新鮮でとっても魅力的で目からウロコな話でした。

 

ボードの上には1つの小さな世界があって、
まるで神にでもなったつもりでその盤上に
自分たちだけの物語を生みだしていく――。
それは小説を書くことも同じなのかもしれませんね。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。