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中島さなえ『わるいうさぎ』を読みました。読みやすそうなページ数と動物たちが主人公という点に惹かれたものの、前に読んだ『いちにち8ミリの。』が今やまったく内容を思いだせないほど自分の肌に合わなかったのでどうしたものかと書店をぐるぐるまわって悩んだ末、結局買いました。今度は私にもジャストフィット。読んでよかった!

 

 

 

「童話集」と見せかけて

ラボから脱走した「わるいうさぎ」、穴に挟まった饒舌な「ねずみ」、“夜の当番”をさせられる「たぬき」、猛獣を愛し、食べられたいと願う「うさぎ」、生き別れた母を捜す「とり」――彼らがいる世界は、どこかで少しずつ繋がっている。切なさに涙があふれる大人の童話集。

 

――文庫裏より

200ページ以下の短編集なのでさっくり気軽に読める1冊。……と、思うじゃん?ところがどっこい、動物たちが主人公のかわいい童話に見せかけてこれがなかなか考えさせられる。1日で読めちゃうかなと気楽に読みはじめたのですが各短編の感想をまとめていたら思っていたよりもずっと時間がかかってしまった。そうだ、これは『いちにち8ミリの。』の作者だったか。なるほど手ごわい。

 

とはいえ『いちにち8ミリの。』に比べると物語の主題はつかみやすく、また、深く考えることのできる奥行きがあるのでかなりよかった。作品の成分的にはトーン・テレヘン『きげんのいいリス』(長山さき・訳)が似ているんだけど、こちらの動物たちのほうがより人間的で、寓話の色が強く、薄暗い印象です。あらすじには「切なさ」とありますがエピローグまで読んで内容を反芻するとおおむね希望の光を感じることができるので安心してください。

 

個人的には表題作「わるいうさぎ」「あまいうさぎ」とうさぎ(主人公はそれぞれ別のうさぎです)のおはなしが好きです。一方で「おもいたぬき」「みたいとり」あたりは思考力が及ばず物語の表面だけなぞった感があるので感性をもっと磨いてからまた挑戦したいな。

 

 

 

世界は誰がつくるのだろう

わるいうさぎ

研究員の腕や指先を容赦なく蹴りあげたり噛みついたりと、ラボでは“わるいうさぎ”と呼ばれていたRB203。自由を求めてラボを脱走した彼は、狸のタンバと出会い、狸の集団〈野狸やり放団ほうだん〉の団員として彼らとともに村へ食料を奪いにいくことに。長いラボでの生活で大切ななにかが抜け落ちてしまった“わるいうさぎ”は外で暮らす動物たちとの出会いでそれを見つけることができるのか。

俺はRB203、わるいうさぎと呼ばれている。

 

(P11/L1より引用)

 

善悪って、ねぇ、なんなんでしょうね。

 

嫌なことは嫌だと態度で示し、小さな世界で植えつけられた価値観は新たな出会いの中で見つめなおされて新たに構築されていく。

 

ウサギを拘束することをルールとしている研究員から見れば、それを拒む彼は、たしかに”わるいうさぎ”だ。だけど私は研究員ではなくこの物語の一読者であって、そんな私の目から見れば、この物語は清々しいほどの生命の物語であり彼はまぶしいほどに命をまっとうせんとする、どこにでもいる、どこにでもいるべき尊い命だ。ああ、そういえばウサギは動物の中でも繁殖力の高い動物だったっけ、ということは読後に気づきました。

 

彼自身=うさぎを命そのもののメタファーと捉えたとき、わるいいのち・・・・・・とはなんだろう。私たち人間も例外ではないけれど、皮をまるごと剥いだひとつの生命になったとき、そこに善悪というのはあるんだろうか。――この途方もない問いにひとまずのとっかかりを与えてくれるのが、わるいうさぎが出会った狸のタンバ・ビンゴ、そして犬のリクの存在。

 

タンバとビンゴ、彼ら二匹が属する〈野狸放団〉という狸の組織には「狸体の架け橋」なる儀式が存在します。曰く、

 

「翌年の大猟を祈る狸体の架け橋。わすらの中から一匹の若狸がみずからの皮を剥いで命を捨て、冥土の狸の霊がこちらに渡ってくる橋を作るやい」

 

(P22/L12〜13より引用)

 

さて、あなたならこの話を聞いてなにを思うでしょうか。私は、あくまで私個人の意見ですが、すでに命をまっとうした者のために今ある命が犠牲になることに疑問を感じてしまいます。しかし、彼らにとってはこの儀式は善であり、無差別に仲間を殺そうという悪の儀式ではない。

 

ところ変わって、犬のリクの言葉にはこんな印象的なフレーズがあります。

 

「(前略)自分が未熟なのもわかっている。わがままで自分本位なのも、彼に依存していることも、迷惑なのも、全部わかっている。でも、俺は生まれてからずっとこうしてきた。これしかできない」

 

(P47/L9〜11より引用)

 

人間社会ひとつとっても、誰だってどこかに属していて、そこにあるルールの中で生きている。そこに誰かが善悪を見出しときには衝突することもあるでしょう。だけど、その善悪を判断するものさしはあくまで個々の価値観が定めたものである、という前提を忘れてはいけない。

 

〈野狸放団〉や「狸体の架け橋」に善悪を見出す人もいる。あるいは、リクのような生きかたに胸を打たれる人も笑う人もいる。個々の命に私たちは善を見ることも悪を見ることもできる。それ自体を否定するつもりはありません。ただ、個々がそれぞれ微妙に異なる善悪の尺度をもっている。ありのまますべてを受け入れることは時代や文化が許さないときもあるかもしれないけれど、せめて、理解しあうことはできる世界であってほしいなと思いました。

 

 

 

イタいねずみ

彼の名前はライプニッツツェルメロ・シェリングソクラテススピノザベルクソン。しかし彼が言うことには「わたしは自分の名を捨てたんです」。相談に来た者たちの前で饒舌に語るねずみ、その言葉の隙間に見え隠れする、恋と父への想い。

人間はどうしてとかく考えてしまうのでしょう。考えることはあることを想像し、ないことを創造してしまう。ないものを創造することはまるで神の模倣で、それが、私たちに「人間は優れた生物だ」と思いこませて自尊心を保たせているのかもしれないなぁ、と、ライプの演説を聞いて思いました。

 

彼が説くように、誰かを想ったり、すなわち思考はたしかにときに毒にもなりうる。それでも私が考えることをやめられないのは、彼の父親のように思考を放棄してしまうことが死を招いてしまうのではないか、という恐怖があるからだと思うのです。

 

人間は社会を築くことで本能のままに生きることを辞めてしまった。もうそういう生きかたは許されない。群れに慣れてしまった心は逸脱するのがこわい。だから考える。考える。考える。それが人間を人間たらしめるアイデンティティーなのだと自分に言い聞かせながら。

 

ただ、どれだけ考えようが、また考えることを放棄してしまおうが、生きものは皆平等に、死にます。

 

 

 

おもいたぬき

肥えに肥えた大狸、〈野狸放団〉の三代目・シモフサ団長が乗る御輿を日々苦労して担ぐ4匹の御輿担ぎたち。あるとき〈野狸放団〉に“わるいうさぎ”と名乗る黒いうさぎがやってきて、団長が彼をすっかり気に入ってからというもの、スルガたち御輿担ぎは彼らに散々ふりまわされるはめに。

革命を起こす最初のひとりは歴史のどの地点をふりかえってもたしかにヒーローだけど、自分の生活環境をガラリと大きく変えてしまうその革命家の背中を、追うか追わずにとどまるべきか、考えた末に決断した名もなき当事者たちも、ひとりひとりヒーローだよなって。だってスルガは葛藤もあったけれど最後にはどちらの道を選ぶか自分で決められたじゃないか。どんな道を選ぶかに正解はないと思うけど、そこに自分の意思があったこと、そこに正義はあったと思う。

 

 

 

ほしいいぬ

川沿いで出会った犬と猫は、猫がかつてラボでつけられた「L19」という番号をわけあい、キュウとジュウになった。以来、2匹はときにこうして一緒に時間を過ごす。頭なんか使ったことのないキュウと賢いジュウ。ハスミさんの飼い犬になりたいキュウはジュウの言葉を信じて2ヶ月ほど彼女の前から姿を消してみることにするが――。

「君は、本当は誰だってよかったのだ。わたしであろうが、人であろうが。孤独を怖がるあまり、自分を託せる、依存できるなにかをずっと探していた。そこでわたしを見つけた」

(P124/L6〜8より引用)

 

あ、私に言ってる?

 

思わず二度見したけど言われていたのはキュウだった。よかった。私に言っているのだとしたら私はオーバーキルで爆散していた。危なかった。

 

出会いの場面や名前の由来などキュウとジュウのコンビは終始とっても素敵なのだけど、最後の最後までジュウがキュウの先生であったというところがあたたかくも切なくて。

 

もしもの話なんて無意味だってわかってるけど、ねぇジュウ、キミが教えてくれたことに気づかない愚かな自分のままでいられたなら、私たちはきっとこんな気持ちを知らなくてよかった。だけど、こんなにも胸が痛いのに、教えてくれてよかった、という気もするんだ。

 

ありがとう。

 

 

 

あまいうさぎ

うさぎを缶詰の中に入れていた主。彼に飼われていた三匹のうさぎの親子は、全員が雌でこれ以上は増えないという理由で庭に放ったらかしにされていた。“世界”に食べそこねられたことを悔やむ姉と「食べられたい」なんてどうかしていると思う妹。意見が対立する2匹はやがて小屋を襲う猛獣と出会い――。

去年、当ブログでは『ブランコ乗りのサン=テグジュペリ』や『現代詩人探偵』などでおなじみの作家・紅玉いづき氏のツイッターで、氏が「恋に落ちる瞬間」を「貴方を、食べたい。」とあらわしていたのを思いだしながら読みました。

 

 

タイトルの「あまい」は自身について「きっと、甘くて、ちょっとスパイシーね」と言った姉の言葉に由来すると考えるのが妥当だけど、個人的には、自分の常識の範囲内での愛しか受け入れられないところが未熟という意味での「甘い」と表現されているようにも感じました。食べられたい彼女も、横恋慕の妹も、“我慢強い”猛獣くんも、姉妹を小屋の中から見つめるしかできなかった母も、みんな含めてね。

 

愛といえば、以前、縁あって漱石の有名な逸話「月がきれいですね」について調べているときにある興味深い記事を見つけました。

 

つまり、ふたりが美しい対象物を眺めながら“美しさ”をともに感じ、心を通わすことができれば、そこに愛は確認できる。あえて言葉にはせずとも、それだけで充分な意思疎通となる。漱石はそこに愛を表現したのだ。

 

出典:http://shiomilp.hateblo.jp/entry/2016/07/08/012959

 

ぶつかりあう視線に愛を見出すのではなく、たがいの視線の先に同じものがあり感覚を共有する。妹が語る姉と猛獣がたどりついたある境地(まぁ彼女の憶測にすぎないのだけど)がこれなんだと思う。そして、それはきっと、とても幸せなことだ。

 

同じうさぎの作品ということで、「わるいうさぎ」の物語を反芻しながらこちらを読むと、最後の段落はなかなか熱い。

 

 

 

みたいとり

母と生き別れになり、フクロウのカルじいさんに育てられたミロはモグモの助力でこの森で最速の鳥になった。そのスピードと視力を買われ今や探偵としてみんなの失せものを見つけることを仕事にしていたミロは、行方不明になったコウモリの次期族長を捜索する過程で、自分の生い立ちに関するある事実を知る。

※この感想はエピローグの内容を含みます。

 

知るのと知らないのでは大違いだからだよ。

 

(P169/L14より引用)

 

まだ雛鳥だった頃の自分をほとんど知らなかった鳥は、なんでも知っている鳥の言葉で、知らなかったもうひとつの真実を知る。だけどなんでも知っている鳥には本当はまだまだ知らないことが山ほどある。知るのと知らないのでは大違い。このおかしな対比がおもしろかった。感想は終わりです。だって、このおはなし解釈するのなんかすごく難しいんですよ。みんなもぜひ体感して。それで、なにか思うことがあったら感想を発信して。私の代わりに。

 

 

 

手ごわい6つの宝さがし

これおもしろいのは、各作品のタイトルに使われる言葉がどれも2つの意味を内包しているというところなんですよね。「わるいうさぎ」の「わるい」は善悪としての「悪」と、しかしよくよく読むとそれは人間にとって都合が悪いというだけの「悪」でしかないんじゃないか、という2つの「悪」を見ることができるし、つづく「イタいねずみ」には見ていて痛々しいという意味と単純な感覚としての2つの「痛」がある。他のタイトルも同じように考えていくことはできるけど、全部を語るのはやめておきましょう。……と言えば、だってほら、気になってきたでしょう?

 

表面的な言葉だけに捉われず、物語をしっかり味わうことで、そのむこうから本当の意味が見えてくる。そんな宝さがしのような心地が味わえるワクワクする物語ばかりでした。作者の意図、物語の意図を考えるのは楽しいなと感じられる作品です。

 

ユニークな動物たちによる6編のかわいくて手ごわい宝さがし、あなたもチャレンジしてみませんか?

 

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。