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たとえば、こんなシチュエーションを想像してみる。「あなたが尊敬している人物は誰ですか?」と面接官に問われた私は、適当な名を挙げ、さらに具体的な理由を説明しようとしている。そのとき私は、1人の人間についてはたしてどれだけのことを語れるだろう――。貫井徳郎『壁の男』を読んで最初に浮かんだ感想はそれでした。私は今このときほど他人の人生によりそったことなど、じつは一度もなかったんじゃないか、と。

 


 

作者名の字面と表紙のデザインから硬派な印象をもったものですが、ストーリーはいたってシンプル。

 

ノンフィクションライターの〈私〉は、インターネット上で話題を呼んでいる栃木県のある町へと取材にむかう。高羅町。そこは今、家々の壁という壁に、稚拙で奇妙な絵が描かれているというのだ。住民たちの話から〈私〉は絵の作者が伊苅という男であることをつかんだが、どれだけの交渉を重ねても彼はなかなか取材に応じてくれない。住人たちからも「普通の人」と評される伊苅はなぜ稚拙な絵を描きつづけるのか――。

 

ジャンルとしてはおそらくミステリーの区分ですが、「なぜ」の部分を説明するのはじつはそれほど難しいことではありません。伏線回収の巧さや、帯でも推されている、乾くるみ『イニシエーション・ラブ』に代表される“最後の一撃”を絶賛する人もいるでしょう。

 

ただ、私が筆舌を尽くして伝えたいのはそうした部分ではありません。徹頭徹尾「伊苅重吾という男の人生」それだけです。

 


 

今ちょうど西洋美術史を勉強しているから、と「絵」つながりで手にとった小説なので、第1章はやはり「芸術」という観点から読みました。

 

芸術は往々にして苦しみから生まれるものだけど、そこに価値を見出すのは往々にして心に余裕がある人たちだ。というのが私の持論です。これ「価値」というのがミソで、心に余裕がないとき見出すのはたぶん「意味」のほうなんですよね。このときはたして芸術に必要なのは、作者の歴史が築いた「価値」なのか、それとも鑑賞者の歴史が紡いだ「意味」なのか。

 

絵を描かずにはいられない衝動が、伊苅を乗っ取っていた。この衝動をどうなだめればいいのか、わからなかった。

 

(P50/L13~14より引用)

 

私ね、世間にのさばるマルチメディア展開ってめちゃくちゃ嫌いだったんですけど、ここ読んだときに見方が変わって。芸術は往々にして苦しみから生まれる。なら芸術はまず作者自身のために生まれなければいけなくて、とすると、既存の作品を視覚化したり、漫画やゲームにしてより世間に浸透しやすい形に展開したりするのは、作品を愛する人たちがそうせずにはいられない衝動をそれぞれ自分にとって最適だと思う形で表現しているだけなのかもしれないなぁと。許した。

 

「あんたにとっては五千円の仕事なのかもしれないが、おれには一万円以上の価値があることなんだ。意地でも受け取ってもらうからな」

 

(P96/L1~2より引用)

 

ありがたいことに、昨日はシミルボンさんに「今週の推し“読書人”」に選んでいただきました。二度目。晴天の霹靂。二度目も相変わらず「なんで?」と声に出して恐縮しましたが、表現には受けとる人がいてはじめて生まれるものがあるのも事実。そこに価値や意味を見出してくれる人がいるのなら、その称賛と感謝は遠慮せずに受け取るべきなのでしょう。

 

それにしても、『壁の男』は登場人物がもれなくしっかり「意味」を持っていて、どこもかしこも言葉と人間模様が美しいから困る。

 


 

傑作の予感がしたので丁寧に読みこんだ第1章ですが、娘・笑里が主軸となる第2章は、ほとんど休憩もとらず「早く」と自分を急かしながら読みました。苦しかった。伊苅を架空の人間だと割りきるには、もう、あまりに多くのことを知りすぎていたから。

 

読むのに相当な精神力を要するので、ときどき、息抜きにデレステやったりとかしました。砥上裕將『線は、僕を描く』の感想で勢いあまってプロデュース宣言した相葉夕美さんも今やファン33万人ですよ。夕美さんめっちゃアイドルがんばってる。話逸れたけど、そしたらちょうどこの時期開催されていたイベント「幸せの法則~ルール~」の茄子さんがまさしく私の心情にマッチしていて。

 

「不運に立ち向かう姿が感動的で、頑張る姿が健気で、みんなに応援されるほたるちゃん」

「それは、最初から幸運な私には、どうやっても絶対に手に入らないものだから。だから――最低な感情が沸き上がるのを、感じました」

「ああ……いいなぁ……」

 

感受性や想像力がどれだけ優れていたって、経験には、どうしたって勝てない。経験したことのない苦しみを、それに立ちむかう勇気を、文字で追いかけて傍受するしかできないことのなんともどかしいことか。茄子さんの気持ちすごくわかる。悔しい。「悔しい」と思ってしまう自分が、嫌だ。

 

ここ、思いだすだけでつらいんですよ。このときばかりはドキュメンタリーを観ているような克明な筆致が憎い。ネタバレするとこの記事最終的には「伊苅の人生とは残酷なものだったのか?」という問いにたどりつくのですが、言ってることちぐはぐだと指摘されても、やっぱり今だけは残酷な運命だということにして憤りたい。

 

追いつめられて初めて得るものもある。それを知ることができたのは、今の辛い状況でのわずかな救いだった。

 

(P148/L13~14より引用)

 

神様、ねぇ、頼むから伊苅の人生に救いを。

 


 

今の若い世代は無宗教だ無神論者だと言いますけど、結局なんだかんだね、こんなふうに神様に祈りたくなるときが誰だってあるわけです。そんな私たちが、娘の闘病を見守るつらさから宗教にのめりこんでしまった梨絵子をどうして責められようか。という第3章。

 

前回読んだ高山羽根子『如何様』収録の「ラピード・レチェ」にも「人のすることに、まったく宗教的でないものなんて本当にあるんだろうか」とあります。加えて今村夏子『星の子』も既読の私としてはむしろ、梨絵子の気持ちが痛いほどわかる。わかってしまう。

 

「またかよ、お前。またやりやがったな。もう落ち着いたかと思ったから、よりを戻したんだぞ。冗談じゃねえぞ。お前、病気だな」

 

(P216/15~16より引用)

 

自己肯定感が低いゆえの梨絵子の過ちを、交際相手の先輩は「病気だな」と吐き捨てます。これが第2章に横たわる笑里の小児がんから地つづきになっているところが非常に興味深い。

 

病気というのは、程度に差はあれ、共通して文字どおり「気」を「病」んでいる状態です。だとすればたしかに梨絵子も病気だったといえるし、笑里は言わずもがな、さらには梨絵子と笑里をすぐそばで見つづけてきた伊苅の精神にも当てはまるといえるでしょう。それらの苦しみは、並べて比較するものではないはずです。

 

自己肯定感が低いゆえに、好意をよせてくれる相手は誰彼かまわず受けいれてしまう梨絵子。娘の闘病を見守るつらさから怪しげな宗教団体に出入りし、それをきっかけにふたたび過ちをくりかえしてしまった彼女は、はたして悪者でしょうか。

 

梨絵子自身は「あたし、悪い女だよね」と言います。それを肯定するというのならば、ぜひ今回の感想の主題を思いだしてほしいのです。「私は1人の人間についてどれだけのことを語れるのか」。非難されるだけのことをしているという点は私も否定するつもりはありません、ただ、人生のほんの上ずみだけを掬いとって「良い」も「悪い」もあるのかと。

 

性善説・性悪説の議論が私は好きなのですが、「そもそも二極化するのは危険だ」と言われたときは目の覚める想いでした。本書の“最後の一撃”にはまさしく同等の威力があり、梨絵子という人物はその最たる例だったと私は思っています。

 


 

第4章の主軸は伊苅の両親。二科展に入選するほどの絵の才能を持つ母と、彼女の才能に嫉妬している父。

 

才能の有無で人の価値は決まらず、何をしたかが大事だと母は語った。ならば母は、やはり価値がある人だと思う。絵を描く母を、初めて誇らしいと感じた。

 

(P295/L9~10より引用)

 

伊苅が笠置に言った「父親のようになりたくないんだ」という言葉、その愚直な性格を散々目の当たりにしてきた私としては文脈どおりには受けとれません。「お前はおれみたいにはなるな」と醜い自分をさらけだしてまで忠告した父も伊苅にとって価値のある人だったと、信じているからです。

 

またしてもデレステの話をしますが、前回の今井加奈ちゃんのスシローイベントもよかった。勉強法や勉強内容についてあちこち訊いてまわってメモをとる加奈ちゃんのことを、木場さんがこんなふうに評するんですよね。

 

「人の良い所を学ぶというのは、自分の未熟さと向き合うことでもある。大変なことだよ、それは」

 

これができる人、そして、それを素直に評価できる人が世の中にはたしてどれだけいるか。私なんてどうだ。意識高いふりして優れた文章を書く人のことメモとったり分析したり手本にはするけど、内心は「こいつおもしろくないわー」「嫌いだわー」「むかつくわー」とかもちろん思ってる。器小さっ。木場さん、私自分の未熟さと向きあうなんてできません!目にくる!直視したら目が焼けちゃう!

 

だから、恥だとわかっていて、それでも自分の未熟さを息子相手に全部さらけだして「おれみたいにはなるな」と言える伊苅父はすごいよ。私は憎めないな。

 

伊苅もそうだったんじゃないかと思う。自分を戒めなければならないほど父が目も当てられない人間だったのではなく、そう、「お前はおれみたいにはなるな」という父の言葉を胸に自分を律しているのだとしたら。父子の関係は、決して悪いものではなかったのではないでしょうか。

 


 

幼稚園児顔負けの稚拙な絵をはじめ、梨絵子との結婚、梨絵子と娘・笑里の距離感、伊苅が絵を描きつづける理由。読者が抱きつづけたすべての疑問にいよいよ答えが出る、第5章。

 

運命とはなんと残酷なのか。

 

(P383/L2~3より引用)

 

さっき我慢できずに言っちゃったけどさ、やっぱり、どうして伊苅とその人生を彩る人間ばかりこんな残酷な運命なのかと憤りたくもなりますよ。ここまでくると。

 

そんなときは『7つの習慣』の著者、スティーブン・R・コヴィーの言葉を思いだすんです。人間のゴールとはなにか。残酷だと思うかもしれない。だけどこの途方もない孤独はフィクションではなく、本当はきっと、誰もが心に隠し持っているリアルだ。

 

フロイト曰く、人間が行動を発する原理は「性衝動」と「偉くなりたいという願望」の2つしかないそうです。あなたの人生はあなたが主人公です!なんて言いつつ、物語を動かす重要な人物は別にいて、じつのところ私たちは常に誰かのために生きているんですよね。

 

人生という物語のプロットはまさしく〈私〉という一人称の視点を与えられた主人公がいながら伊苅という人間を軸にしている本書の構図そのもので、没入感のある筆致やミステリーとしての技巧だけでなく、こういう部分までじつに巧いなと。はー。

 


 

西洋美術史を勉強するにあたって今は秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』を読んでいるのですが、そこに、ピカソの作品には「知的ゲーム」のような楽しみかたもできる、とあるんですよね。

 

余談ですが、ピカソはあまりに上手すぎたため、毎回作品の制作時に何かしらの制限を設けていたといわれています。

たとえば「あえて下手に描く」といったもので、そうした意図がどう反映されているかを探す「知的ゲーム」のような楽しみ方もできます。

 

(秋元雄史『武器になる知的教養 西洋美術鑑賞』P135/L5~8より引用)

 

タイトルの「壁の男」は〈壁に絵を描く男〉と〈(取材交渉に対して)壁のように動かない男〉という伊苅の2つの側面をあらわしています。他にも、笑里と梨絵子それぞれに「病気」という言葉が当てが割れていたり、父の心を巣食う嫉妬と笑里の身体を蝕む病を結びつける「癌」、母の絵の「才能」と美里の料理の「才能」。本書にはダブルミーニングのように感じる単語が散見されるように感じました。

 

人間もまたダブルミーニング。絵画のように、他者が見ればそこには常識とは異なる価値が存在するもの。

 

伊苅重吾という男の人生から、なにを見て、なにを知り、なにを活かすか――。『壁の男』という作品もまた、小説という芸術を介した作者と読者の濃密な知的ゲームの場なのかもしれません。とても楽しかったです。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
読んだ小説の感想や考察を書いています。好きが高じて元小説家志望なので、一篇の物語のように心躍る記事が書ければ。ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれます。小説の他に哲学、美術、神話などの学術本も好きです。