『夜市』以来、十数年ぶりの恒川光太郎。Twitterでフォローしている方の「非日常の中に流れる日常に紛れる非日常」という感想に惹かれたので、電子でさっそく読んじゃいました。決して避けて通ることはできない家族の強力なしがらみみたいな部分はバリー・ライガの『さよなら、シリアルキラー』(満園真木・訳)を彷彿とさせたりもしつつ、全体的には罪の根本を問いただす物語なのかなと。加害者にとっても被害者にとっても、そして、傍観者にとっても。

 

以下、諸々の感想です。

 


ずっと昔、あなたと二人で

誰の視点で、どの感情で受けとめればいいのか。一発目ですから、それが読後最初の率直な感想で、とても「難しい話」だと思った。居場所というものは結局自分でつくるしかないんだな、と。どこかで折り合いをつけながら。完璧に想像することなんて、できないのだから。

 

ただ、たとえばアキとリョウコちゃんの邂逅のように、人が人と一緒にいられるのが一瞬だというのなら、居場所をつくって定住しない、という生きかたもまたあるんだと思う。もともと人間は狩猟民族で移動しながら暮らしていたわけだし。

 

死んでいても友達になれる。

 

これはたとえば子供が必ずしも家族と暮らしつづけなくてもいいとか、SNS上にある友情とか、そういうものにも通じるはず。

 


母の肖像

ジュリアン・バジーニ『100の思考実験 あなたはどこまで考えられるか』(向井和美・訳)の中にある「好都合な銀行のエラー」という思考実験を思いだしたのでみなさんと共有しておきます。

 

・ある男が、100ポンドを引き出すために銀行へむかった。
・ところが、出てきたのは1万ポンド紙幣と100ポンドの領収書だった。
・それから2ヶ月経ったが、このエラーについて銀行側から「金を返せ」という連絡はない。
・男はこの金を持って車を購入しようと考える。道中、罪悪感に襲われながら。
★この金は盗んだものではなく転がりこんできた金である。
★人から盗ったわけではないから“被害者”はいない。
★銀行にとってははした金だし、こうした不足の自体に備えて保険にも入っているはずである。
★損害を出したのは銀行の責任であって自分ではない。

 

以上の★4点から、男は結局この1万ポンドについて「これは窃盗ではない」「これまでの人生で最大の幸運というだけだ」と結論づけたようでした。この思考実験のテーマは〈誰も損しなければなにをしてもよいか?〉。殺人犯の父が残し、その父を殺した母から託された6980万円を、受けとるべきなのか、いやそんなことよりも――混乱する一馬の心境に、これは少なからず似ているのではないでしょうか。

 

あるいは、聖書の中に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」で有名な逸話がありますよね。あの言葉が巧いのは、罪を決めるのは結局のところ個人の価値観だからだと思うんです。罪を、正義を、2人以上の人間で定義するのは難しいという話。暫定的に決めておかないと社会が上手くまわらないというのはもちろんわかるけどね。

 


やがて夕暮れが夜に

たとえば、一握りの天才を殺してしまわぬよう凡人はその才能を伸ばして共感のプロになれ、みたいな話が北野唯我『天才を殺す凡人 職場の人間関係に悩む、すべての人へ』だったと思うんですけど。まぁ、その「共感」を履き違えている人たちが本当に多いよね、という話。

 

本当に共感なんて殊勝なことができる人なら、AさんとBさんが今まさに衝突しているところにちゃちな正義感振りかざして出ていったところで「いや、部外者はすっこんでろし」と思われるところまでを込みで想像ができるはずなんです。ところが頼まれてもいないのにわざわざ首を突っこんで自分事にする、しかもそれを声を大にして発信するのはやっぱり共感の真似事でしかないと思うし、結局目立ちたがりやかまってちゃんが共感を装って自分語りをしているっていうのが「共感時代」の実情だろうなと思います。

 

たまに自己承認欲求は人間誰しも持っているものだから~って哲学めいた言い訳する人いるけど、こういう人たちの欲って「自己承認欲求」じゃなくて「自己顕示欲」だよね正しくは。認めてほしいって下手に出る人は物理的・精神的どちらにしても暴力振るったりしないからねって。

 

ところで、こういう「どうにも理解しがたい狂気」を昔の人は「狐に憑かれた」なんて言って恐れたようです。稲荷神社の近くで、エリオくんは刺されたのではありませんでしたっけ?

 


さまよえる絵描きが、森へ

読みかたによって感想がころころ変わってしまう、複雑で、だからこそ圧倒されるというか……なんとも表現しがたい話だった。KENという人物に関しては「私は彼女たちの〈福の神〉になりたい」ってところに狂気を感じるし、ただ、明確な悪意があるでもなくでも彼を贖罪の森にさまよわせつづける真弓にもぞっとはして。なにが正解なのかわからなくなる。

 

罪と罰には本当は今以上の細分化が必要で、

 

真弓さんには九年の時間が確かに流れている。だが、彼は九年前に囚われ続け、ずっと罪人のまま、いつまでも、納得できぬまま、さまようことになる。それこそ彼にとっては一番の罰なのかもしれない。

 

どんな罪や罰にしても、これが根本にはなるのかなという気はします。ああ、裁く側の気持ちはおおむね同じベクトルへむきやすいけど裁かれる側が行きつく感情にばらつきがあるってのが話を難しくする要因なのかもなぁ。

 


真夜中の秘密

先の聖書の話に戻るんですけど。罪を犯したことのない者など本当にいるのか、というテーマですね。世の中には「共犯」という言葉があって、たとえば泰斗のような罪の関わりかただって、もしかしたら実在するかもしれない。AちゃんがBちゃんのいないところでこっそり彼女の悪口を言っていて、私が「そうだね」なんて言った日には、私にとっての処世術がBちゃんからしたらそれはAちゃんと同等に罪なわけです。そして、たとえ法では裁けなくても、こういうレベルの罪は日常的・普遍的に存在していると。

 

法律。そう、法律で裁ける範囲を「罪」と呼んでいる人がいるからややこしいんじゃないんですかね。被害者がいて、被害者がそれを罪だと思えばそれはたしかに罪なんです。あくまで客観的に事態を見極めるというのが重要で、それを履き違えている人もまた、いるわけなんですけど。……履き違えてる人多いなっ!

 

全然関係ないんですけど、今『創の軌跡』やってて、軌跡シリーズのアンゼリカさんが流派「泰斗流」なんですよね。泰斗ってなんだろうと思って調べたら「権威者、その道の大家」という意味でした。泰山北斗の略。この話が〈誰しも背負っている罪〉を象徴しているのだとしたら、「泰斗」という名の主人公はまさに、共犯というもっとも根源的な罪を象徴するキャラクターだったのかもしれませんね。

 


 

以上です。

 

私が趣味で書いている掌編小説の中に「大根のツマと私」というお題で書いた作品があるのですが、お題をくれた人に読んでもらったら「狂ってる」と言われ衝撃を受けたのを思いだしました。誤解がないよう先に伝えておきますが、褒め言葉です。

 

自分的には「変な、おもしろい話できたな」ぐらいにしか思ってなかったんですよ。ところが彼の感想に想定していた言葉がなくて。まぁそれ自体はよくあることだし創作の醍醐味でもあるんですけど、このとき、他人から見たとき自分は明確に異なる存在で、誰かにとっての狂気にもきっとなりうるんだと思い知って。興味深くて。

 

あの頃自分は若かった。みな誰もが若く、そしてぎりぎりで、懸命だった。

 

『真夜中のたずねびと』の主人公たちの境地というのは、おそらくこんな具合だったろうとも思うのです。狂った人など本当はどこにもいない。きっとみんながそれぞれどこかでは狂っているし、等しく、罪を背負って生きているのだと思う。

 

私たちは、いろんなことを履き違えている。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。