去年の下半期から、全然読書をしていない。

 

書評で飯食ってるわけじゃないんだし、しなきゃいけないもんでもないんだけど、明確に原因はあって、把握はしてる。

 

 

書くのに夢中だった。

 

ついこのあいだまで4000文字の掌編書いて喜んでたはずが、4ヶ月かけて、年が終わる頃には450枚超(原稿用紙換算)の長編小説に「了」って打ってた。急にどうした。単純計算で18万文字。45倍じゃん。なに、45倍って。こわっ。

 

理由としては、偶然にも創作に関する超絶良著に出会ってしまった。これに尽きる。で、読んだからには、書くしかないよなって。

 

夏の終わりのバッタが必死に跳んでんのをみて、あ、おれも跳ばなきゃ、って思った。

 

(P16/L4~5より引用)

 

そう、まごうことなきトリツカレ男だった。私も。

 


 

というわけで、2023年、今年もいしいしんじ『トリツカレ男』を読んだ。

 

何回目?初めて読んだとき高校生だったけど、もう32歳だよ。気づいたら。15年ぐらい名著1位の座に君臨しつづけてる。強すぎ。がんばる!ってときはとりあえず読むってもうそれ、立ち位置リポDかヘパリーゼじゃん。

 

誰に貸したか忘れたけど、てか人に貸した記憶もないんだけど、なんらかの理由で行方不明になったんで、今手元にあるのは2代目。折りたいページはすでに折ってあったし、引きたいところにもすでに線が引いてあった。じゃあ今回はやることねぇなと思ったらまた線引いてて草。なんなら、most favorite 名言には付箋も貼っちゃう。

 

愛書家じゃないんで、余裕で折るし線引くし付箋も貼るけど、書きこみはしないから、逆に「なんでここページ折ったんだろう」って思いだせないところもあった。物語とは別に、たぶんこういう理由で折ったんだろうな、って過去の自分に想いを馳せるのも再読の醍醐味。

 


 

n回目の再読でも、未だに、学ぶことがたくさんある。

 

たとえば、これまでは主人公のジュゼッペにばかり目がいってたけど、これ、よくよく考えたらジュゼッペのそばにレストランのご主人みたいな存在がいることがめちゃくちゃ重要なんだよな、とか。

 

ご主人にだってジュゼッペに悪気がないことはわかってる。しょうがないよな、トリツカレ男なんだから。だからご主人はためいきをつき、しばらく休みをやるよ、その癖がなおったら店にでてきな、そういって二度三度と細い肩をたたく。

 

(P12/L13~P13/L2より引用)

 

レストランのご主人は深々とためいきをつき、ばかといわれても、しかたないかもしれんなあ、といった。やつは別に、世界一になりたかったわけじゃない、賞金が欲しいわけでもなかった、
「ただただ、跳びたかっただけなんだよなあ、バッタみたいに」

 

(P19/L11~14より引用)

 

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、ゆかいなことはあくまでもゆかいに。と、言ったのは井上ひさしだけれど。北野唯我『天才を殺す凡人』にあった〈共感の神〉の概念をそういうふうに噛み砕いたのが、いしいしんじの『トリツカレ男』だよなって思ったり。

 

ジュゼッペみたいな変わり者の天才は、もちろんそれはそれですごい。でもジュゼッペを「トリツカレ男」の名で街中に愛される変わり者へと昇華させてるのはこういう人の存在だってことも、私たちは知っておかないといけない。

 

レストランはなんにもかわっちゃいない。ご主人も、常連客も昔のまんまさ。でもね、なんにもかわるところのないレストランって、実際、すばらしいものなんだぜ。

 

(P158/L1~3より引用)

 

語り手だって、それがわかってるから“ご”をつけてるし、ずっと褒めてる。

 

そして、語り手にはそれがちゃんとわかっているということもまた、「すばらしい」ことなのである。

 


 

それから、親友のハツカネズミ。彼がここまでジュゼッペのためにしてくれるのは、出会った当初からジュゼッペが知らず知らずのうちに積みあげてきた信頼があるからなんだろうなって思った。

 

情けは人のためならずって言葉があるけど、あれはちょっと違う気がして。

 

前に自己肯定感についての解説動画を見てて、「人とは誠実にむきあいたい」と意識すれば相手の褒め言葉も謙遜せずに素直に受けとることができるって話があったんだよね。

 

曰く、自分の価値ではなく、自分が価値をおきたいもの自分が大切にしたいものに意識を移すことがまずは重要で。すると、それは「こうありたい」という自分の在りかたへとつながっていく。それがたとえば「人とは誠実にむきあいたい」だったとき、これを意識すると、自然と相手の褒め言葉も素直に受けとめることができる、と。褒めてくれた相手と誠実にむきあいたいから。

 

情けは人のためならずってのはそれに似てるのかもしれない。人を、世界を、めぐりめぐって動かしたのは、情けのもっと根っこにある、物事に誠実でありたいっていうジュゼッペの「信念」だったのかなって。

 


 

そして、ペチカへの恋。

 

世のなかってときどき、信じられないことが起こるものね!

(P61/L2~3より引用)

 

これまでは人生で無駄になることなんて一つもないっていうのが物語のメッセージだと思ってたんだけど、今回読んでみて、またちょっと考えが変わった。

 

だってこれ、ジュゼッペはペチカのために、これまで習得してきたものを無理やり総動員してる構図なんだもん。偶然昔やってたことが活きたって話じゃないんだよ。これ使えそうだから試してみよう、実際は全然使えなかったとしてもとにかくまずは試してみよう、なんだよね。ジュゼッペからしたら。

 

つまり、別に物事には相性の方程式なんてなくて、単純に熱意さえあれば、まるでそこに方程式があったかのように、自分を、世界を錯覚させて実現させてしまえることもあるって好例なんじゃないかと。そういう意味では、精神論ってのもあながち間違いじゃないなって。

 

ただ、これを実現させるためにはそれなりに創意工夫が必要で、ここに個人差が出るって話。まぁ、思うに「才能」っていうのはこの創意工夫ができるかってところに宿るんじゃないかな。

 


 

ところで、ジュゼッペはイタリア、ペチカはロシアでつけられる名前っぽい。

 

「ジュゼッペ」は英語でいうところのジョセフ、つまりヨセフに由来すると。「ペチカ」はロシアの暖炉兼オーブンの名称なんだって。あ、だからパン屋さんなのね。なるほど。火のあたたかさ的なニュアンスが親の祈りになってるんだとしたら、日本人が子供に「あかり」ってつけるみたいな感覚なのかな。

 

もう一人、タタンといえばタルトタタンだけど、この「タタン」ってフランス人(タタン姉妹)が語源なんだって。ってことは、タタンはフランス系の人か。日本語の「他端」は「もう一方の端」、「多端」は「あれこれと事件・問題が多いこと」って意味があるらしいけど、ペチカの一方にいるのがジュゼッペだとしたらもう一方はタタンだし、タタンの事故が2人のあいだに横たわる大きな事件・問題であることを考えると、ある意味感慨深い名前ではある。

 

「きみは今晩、なんにもまだ、たべていないね、ジュゼッペ君」

 

(P117/L6より引用)

 

そういや、あのときしゃべったタタンって、ジュゼッペの抑圧された本音だったんじゃないかって個人的には思うんだよね。

 

このとき、ジュゼッペは身体も精神もすべてタタンに明けわたすことで、ジュゼッペであることをやめようとしてたわけじゃん。その防衛本能として、ジュゼッペの奥底にいた本当のジュゼッペが、タタンの姿を借りて「きみ(おれ)はきみ(おれ)のままでいい」って言うために出てきたんじゃないかなって。

 

つまり、あれ自己肯定のシーンなんだよな。

 

最初に飯の話が出てきたのは、生きろって身体に信号を送るため。死ぬ寸前だったし。読んでおくといい本は自分が学校に行っていないという引け目に対する肯定とその解決策で、山と海岸は街や国の外へ出る=広い視野を持てという示唆。フルーツジュースは栄養失調→痩せていることへの改善策だから、もしかしたら体型にコンプレックスがあったのかな。ハツカネズミの楽園は、親友であるハツカネズミに幸せになってほしいから出てきた話で、元ホッケー選手の住所は、ペチカのためではなく、本当に、純粋にホッケーを好きになりはじめたことの暗喩。……こう考えると、いろいろつじつまがあうような気がするんだけど。

 

そして、話は自分のもっとも大切な人、ペチカへと帰結する。ペチカを好きな自分を好きになる。

 

「それにね、お礼をいいたいんだ。ジュゼッペ君、きみは、たしかに無茶な男だけれど、とてつもない勇気をもっている。そのおかげでペチカは救われるだろう。それに、この私も」

 

(P120/L11~13より引用)

 

これ、ジュゼッペにとっては最大級の自信で自己肯定感なんだよ。この「とてつもない勇気」で自分が彼女を幸せにするべきだっていう。

 

告白して、成功すればもちろんハッピーエンドだし、仮に失敗したって、友達として彼女を幸せにする方法もある。結果は問わない。けど重要なのは、ジュゼッペがタタンではなく、ジュゼッペとして彼女を幸せにできると、ジュゼッペ自身が思えたことなんだよなぁ。そう思ったら過去最高に泣けた。もはや「まぶしくピュアなラブストーリー」どころの騒ぎじゃない。

 


 

あと、51ページの「秘密の兄弟」はなんで秘密なのかって話ね。

 

口ぶり的にはお兄ちゃんなのかなって私は思う。

 

で、すっごい悲しい考察をすればだよ。ジュゼッペが生まれたときからこういう性質を持った少年だったとしたら、「学校へ通ったことのない」(P77)理由ってここにありそうだよね。要は、しょっちゅういろんなことにトリツカレちゃうから通えなかった、と。

 

そうなるとさ、親としては、まぁよっぽどの愛情や理解がなければ見限るわけで。いや、この世界でそんなこと起こらないでほしいってのはもちろんそうなんだけど。もしかしたらよ。もしかしたら、なんらかの事情で家族と離別した可能性もあるじゃん?ただ、この兄(仮)はたぶんジュゼッペのことを家族として愛していたし、理解もあったから、「(親には)秘密の兄弟」ってことで交流がつづいたんじゃないかと。文通とかで。

 

そうすると、「ぼくはおいていかれちゃった。とうさん、かあさん、ぼくをつれていきたくなかったみたい。ずいぶんおなかがすいた。ここにおいてくれる?」と言ったハツカネズミに対して、ジュゼッペが「もちろん」と何度もくりかえしうなづいたことにも、それなりの説明がつくよなぁ。「一匹ぐらい、かわりだねがまじっていて、ふしぎはないさ」に対して「まあ、たしかにそうだろうな」となにをもって「たしかに」と思ったのかも。この物語がペチカをきっかけとしたジュゼッペの自己肯定感の話だったとしたらさ、思えば、これが最初の自己肯定感だったのかもしれないね。だから親友になれたのかも。

 

で、ジュゼッペが今は働いて一人で暮らしているくらい大人になっているということは、この兄(仮)はもっと前に大人になっているわけだから、親元を離れて今はジュゼッペと同じ地域で暮らしてるのかな、とか。文通はやめて、ときどき会って話したりとかしてるのかな。ご主人のレストランでさ。

 


 

感想とか考察は、以上です。

 

何回読んだかわからない作品のわりに感想を一度も書かなかったのは、マジで、冗談抜きに世界で一番好きな本だから。

 

好きなやつほど書くだろと思ったあなた、それは違いますよ。人は一番ほど簡単に他所で言わないものなんです。雑誌に「あの人が好きな映画・音楽・本」という特集があったら、それは二番三番の特集なんです。こいつあたりさわりないこと言ってんなー、メジャータイトルしか挙げないじゃん、じゃないんです。それがあたりまえなんです。一番なんて誰だって自分だけのものにしておきたいんだから。

 

じゃあ、なんで今さら感想書いたの?

 

一番じゃなくなったから?

 

それはね、何年も、何回も読んで、やっと思い知らされたから。

 

一番好きなものこそ、表立って好きだと言葉にしなきゃいけないんだって。作者のために。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。