ラストシーンを覚えていない、というのはたぶんこの読書人生で初めてのことだった。
少年時代、チェロ教室の帰りにある事件に遭遇して以来、深海の悪夢に苛まれる橘樹は、勤務先の全日本音楽著作権連盟の上司・塩坪から呼び出され、音楽教室の潜入調査を命じられる。目的は著作権法の演奏権を侵害している証拠を掴むこと。彼は身分を偽り、チェロ講師・浅葉桜太郎のもとに通い始めるが……。(あらすじより) |
“スパイ×音楽”長編、とはあらすじですでに記されているけれど、
そうやって自分が被害者みたいな顔をするな。(P244/L13より引用)
どうしてだろう。ああ、橘は“スパイ”なんだ、とはっきりわかる――あまりに唐突に、理不尽にわからせられるのは後半になってからだったように思う。唐突ではない。理不尽ではなかった。それは、もちろん、わかってる。だけど、彼が呼吸をはじめて、一人の人間としてこの小説の中を生きはじめたのも、皮肉なことにここからだったのに。
人間として、生きるから失敗する。
人間は、だって、完璧な生きものではないのだから。
失敗したら、人生はそこで終わりだろうか。映画ならそうだろう。とりわけ下手なスパイ映画なら、ミッションの成功と引き換えに主人公はなにか大切なものを失うのだろう。失って終わる。そういうストレスコンテンツとして、自らストレスに侵されたいストレス中毒者の観客に偽物のリアルを魅せて幕が下りる。
でも、これは小説だ。
凝縮された誰かの人生だ。
「梶山さんがって言ったけど、本当は私だって怒ってます。連絡先をブロックしたくらいで、上手く消えちゃったつもりですか? そんなことしてもみんな橘さんのことを覚えてるし、こうやってコンサート会場で出くわしちゃうことだってあるし、私が合格したのだって、もう取り返しがつかないし……」(P280/L3~6より引用)
「おまえにかかれば、天気も、災害も、伝統あるコンクールの結果すらも、この世のすべてはおまえのせいか。神様みたいにすべてのことが、おまえに掛かっているとでも? そんなわけがあるか。人生の正念場でクソみたいなことやらかしやがったことは許しちゃいないが、それとこれとは別の話だ。これが、俺の実力のすべてだ。おまえから詫びを入れられる筋合いはない」(P306/L12~16より引用)
人間が、魚のように深海で暮らすことなどできないように。番からはじまり群れで歴史を紡いできた私たちが孤独に生きるのは難しいのかもしれない。すべての縁を絶つことなど できないのかもしれない。外へ出ればの話だ。でも、それは「外にさえ出ることができれば」とも言い換えられる。
たとえば、近所のコンビニでレジに立つ店員に「これ、おねがいします」会計が終わったら「どうも」。これを言うだけで自分は社会活動に参加していると認識ができて人間は孤独は感じにくくなる――という話を以前なにかで読んだ。「袋いりますか?」「あ、おねがいします」たったこれだけで結ばれてしまう糸だ。縁というものは、ただ言葉が異様に仰々しいだけで、実際のところ、本当は全然たいしたものではない。
外にさえ出ることができれば 。人と、社会と、つながることはできる。つながってしまう。それは絶望ではなく希望だと思う。思いたかった。本著にそう明記されているわけではないけれど、私が、自分でそう思いたかった。そんな欲が、本当はあったのだ。孤独のふりをして。深海を一人で泳いでいるふりをして。それがわかって、わからせられて、だから最後はほとんど泣いていた。あまりに心を揺さぶられすぎて。クライマックスばかり鮮明で、ラストシーンを、まるで覚えていない。
ラストシーンを知るために、私はいつかまたこの本を手に取ってページをめくるだろう。そしてたぶん、クライマックスでまた泣いてしまう。ラストシーンを覚えてはいられない。孤独のふりは、たぶんなかなかやめられない。私は完璧な生きものではないのだから。
これから先、きっと何度もこの本には救われる。そういうままならぬ人生を、感性を、生きている。そのことを、悲観ではなく感謝して、今回は筆を置きたい。
この縁を運命と呼ぶのなら。
そのすべてにありがとう。