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ガブリエル・セヴィン『書店主フィクリーのものがたり』(小尾芙佐・訳)を読みました。代官山の蔦屋書店で見つけたんだったかな。帯にある「本を愛するすべての人たちに贈る物語」という文句に偽りなし。遅効性です。とても穏やかな物語なのだけど、本を閉じてしばらく余韻に浸っていると、突然どういう理由であふれてきたのかわからない涙がぽろぽろこぼれてきました。

 

 

 

本を愛するおバカたちへ

島に一軒だけある小さな書店。偏屈な店主フィクリーは妻を亡くして以来、ずっとひとりで店を営んでいた。ある夜、所蔵していた稀覯本が盗まれてしまい、フィクリーは打ちひしがれる。傷心の日々を過ごすなか、彼は書店にちいさな子どもが捨てられているのを発見する。自分もこの子もひとりぼっち――フィクリーはその子を、ひとりで育てる決意をする。

 

――文庫裏より

「ふん! 本なんておバカどものためのもんですよ」とA・Jはいう。

 

(P139/L16より引用)

 

これ、書店主であり本を愛する本書の主人公様・・・・・・・・・・・・・・・・・・が言ってるんですよ?どう思います?最高じゃない?

 

他にも「本を愛し、本屋の主であるにもかかわらず、作家というものを尊重しているわけではない」(P56/L1)などA・J(タイトルには「フィクリー」とありますが作中は「A・J」として語られます)のまったく偏屈な本への愛には笑わせてもらいました。電車の中だというのに思わずふふっとしたりニヤニヤしてしまったことも。ダニエルやランビアーズと話すときのA・Jはキレッキレで好きです。曲がりなりにも作家であるダニエルに対して「あんたは、あほたれですな」(P58/L1)ってアホ呼ばわりするのたまらなく好き。

 

まだまだ作中の言葉を引用してこんなネットの僻地にある読書ブログに足を運んでくれた本好きのみなさんと「感性を共有」したいところなのですが、引用には自分が書いた文章が主であることという前提条件があるので、仕方ない、一番好きなとっておきをまとめのためにとっておくとして。

 

タイトルのとおり、物語はまさにA・Jの“第二の人生”とでもいいましょうか、店にひとり残されていた赤ん坊・マヤとの出会いからの生涯を描いていきます。起伏は少なくエンターテインメントとして読むと物足りないかもしれませんが、本を閉じるときには自分がいかにA・J、彼をとりまく人々、アリス島に流れる穏やかな時間とそこに凝縮された人生の寓話に魅力を感じ、愛着を持っていたかを思い知るでしょう。個人的には旅行先に持っていくのが似合うかなと思います。波音がかすかに聞こえる場所で少しずつ、長い時間をかけて、ぼんやりと読みたい。

 

読んでいるあいだ、頭にするりと入ってくるなめらかな翻訳だなぁと思っていたのですが、そうか、訳者の小尾芙佐氏は『夜中に犬に起こった奇妙な事件』も翻訳されていたんだった。どっちもハヤカワepi文庫だし。すごい偶然。

 

 

 

読書とはなにか

読書から得られるものはなんだと思いますか?知識?共感?私は他者を受け入れる「心の余白」じゃないかと思います。人間は相手の顔を見るとか声に出すという直接的な責任感を放棄して言葉を文字にすると、良くも悪くも本心をさらけだすことに抵抗がなくなる。殊にフィクションの皮をかぶることでより奥に秘めた心・思想を描くこと、またそれに触れることができる小説は至高だと個人的には考えています。

 

数多の読書経験の中で、結果的にというかめぐりめぐって、私はたとえば偏食がなおりました。「きらい」という言葉は使わずに「食べられるけど苦手」にとどめようとするうちに魚介類も豆腐も食べられるようになりました。両親がめちゃくちゃ驚いていました。苦手、だけど食べる。自分の価値観とはまったく違うけれど“別のなにか”として受け入れる。

 

最初、ここには私がある1冊の本でいかに人生が変わったかという話を書こうと思っていました。だけどそれはきっとこの感想に必要なことじゃない。書きたいと思うけれど書くべき・・・・ではない。そんなふうに自分の意思とそうでないものを区別して共存させること、読書で得られる「心の余白」とはそういうものなのだと思います。

 

ある人物との出会いをきっかけに綴られるささやかな日常。A・Jの人生が1冊の小説として成立するのなら、私たちの人生だって例外じゃない。そこに秘めたる想いがあり言葉がある。見てくれが違うだけで、私たちは歩く本だと言ってもいい。すると、「1冊の本が人生を変える」そんな手垢のついたありふれた言葉がにわかに真実味を帯びはじめる。

 

人間の姿をした、かくも複雑で難解な本。これを読みこなすために、本の形をした他者との触れあいで「心の余白」をつくっていく。他でもない、あの人との関わりを私の人生の1ページにしたいから。――つまるところ読書とは、そういうことなのかもしれませんね。

 

 

 

ポケットには文庫本を

お待たせしました、最後に私が一番好きなランビアーズの言葉を引用します。

 

おれは、本のことを話すのが好きな人間と本について話すのが好きだ。おれは紙が好きだ。紙の感触が好きだ、ズボンの尻ポケットに入っている本の感触が好きだ。新しい本の匂いも好きなんだ。

 

(P335/L5~7より引用)

 

彼の言葉のもっとも愛おしいところは「ズボンの尻ポケットに入っている本の感触が好きだ」、ここ!超わかる!冬、コートの大きなポケットに文庫本を入れておくのが私はたまらなく好きです。いつでも本に触れることができる。いつでも本を読むことができる。ああ、これってなんて素敵なことなんでしょう。

 

章を読み終えるたび、各章冒頭にあるA・Jによる短編小説の解説とマヤへのメッセージに戻って、それをじっくり読む。マヤという1人の女の子が彼の物語にどれほどのページを与えてくれたかを感じる。作品を読みきったあともう一度それをやって、本を閉じる。「人生」というものがいったいどれだけの物事を積み重ねて、折り重ねて綴られていくのか。本書をふりかえるとその忌々しくもあたたかな重みに耐えきれなくてどうしても泣いてしまいます。

 

ポケットに文庫本を入れておくということは、誰かの物語を、想いを、日常を、人生をすぐそばに置いておくということ。読書はとても孤独なようでそうでもない。そう思えるから、出かけるときは、いつも鞄(文庫本が入るほどのポケットがついた服は実際はなかなかない)に本を忍ばせる。

 

ああ、つくづく小説が大好きだ!

 

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。