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私には3歳年上の兄がいるのですが、
先日ポケモンの〈スイクン〉をめぐって
頭痛で倒れこむほどの大論争をしました。

 

きっかけは兄が遊んでいるポケモンGO。
捕獲したポケモンの一覧を見せてもらっていると、

 

「金銀のポケモンが解禁されたらしいね」
「うん」
「あれ、スイクンって金銀じゃなくない?」
「金銀だよ」
「クリスタルからでしょ」
「金銀だし。俺、金銀のとき捕まえたもん」
スイクンってクリスタルのパッケージだったじゃん!

 

それからしばらく、
状況がわかっていない両親の前で
金銀だクリスタルだと言い争っていたのですが。

 

「ほら金銀じゃねーか!」

 

調べたところ金銀からのポケモンだったようです。

 

私の間違いでしたお兄様と謝れ!」
「謝るものか!絶対に!謝らない!!」

 

両親は腹を抱えて笑っていました。
私は断固謝罪拒否の末に熱→頭痛のコンボで倒れました。

 

「“アローラの姿”ってなに…」と
記憶は金銀で止まっている兄ですが
先月めでたく恋人と入籍したようで。

 

結婚祝いはサンムーンでいいのだろうか。

 

というわけで、
今回は兄妹のおはなし。
アンドリュー・カウフマン氏『奇妙という名の五人兄妹』読了です。

 

 

 

家族小説、ではなく、兄妹小説。


 

 

ウィアード家の三女アンジーは、
祖母に呼び出されてバンクーバーの病院にやってきた。

 

祖母は
自分が十三日後の誕生日に死ぬことになると予言し、
続いてこう言った。

 

「お前たち五人の孫が産まれたとき、
祝福のつもりで〈力〉を与えた。

 

危機を回避する力、
道に迷わない力、
希望を失わない力、
許しの力、
戦う力。

 

でもそのせいで
お前たちの人生は台無しになってしまった。

 

わたしが死ぬとき、この力を消してあげよう。
そのために、お前が全員をここに連れてくるんだ」

 

アンジーは祖母の指示に従い、
それぞれ〈力〉と悩みを抱える兄と姉二人と弟を集める旅に出た。

 

『銀行強盗にあって妻が縮んでしまった事件』の著者が描く、
奇妙(ウィアード)という名を持つ家族の奇妙な物語。

 

※あらすじは東京創元社HPより引用しました。
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488010645

 

 

 

前作のほうを探しに書店へ行ったところ、
棚にこちらしか並んでいなかったので先に拝読。

 

物語の設定とか趣向はまったく違うんですが、
テレビ番組「フルハウス」を思いだしました。

 

「すぐ戻ってくる。必ずだ」
「それはどうも、ふたりともご親切に」
「うろうろしちゃだめよ」ルーシーが言った。
「もう十二歳の子供じゃないのよ」
「じゃあそれらしく振る舞いなさい」
(中略)
「中に番犬でもいればいいのに!」アンジーは叫んだ。

 

何気ない兄妹のかけあいには
HAHAHA!と例の笑い声が聞こえるようで、
鼻から変な音をだしながら笑い転げていました。

 

子供の頃に確立された習慣や役割って
大人になっても身体に染みついているんですよね。
ウチも昔から私はB専みたいな風潮が消えないし。

 

私はルーシーが意外とツッコミが優秀で好きです。

 

あとすごく余談ですが、
私もアンジーと同じように首にへその緒を巻きつけて
胎児時代を過ごしたらしいのでP28のくだり超わかる。
シャツを第1ボタンまで留めると「おえっ」となります。

 

 

 

他に個人的に推したい点として、
行間を読むのがとてもおもしろいというのがあります。

 

兄妹のこれまでの生活。
祖母から与えられた〈力〉が生みだした苦しみ。

 

大小関わらず
曖昧にぼかされている部分が結構あるんですけど、
決して作者(訳者)の手抜きというわけではなくて、
寓話のように自分で真意を見つけていくのがいい。

 

田内志文氏による訳者あとがきがすごくよかったです。
大切に、丁寧に、翻訳をされたのをひしと感じました。

 

 

 

兄弟とは同志であり相棒である


 

 

「名づけは親の最初の暴力みたいなものだし」
「つけられた名前で生きていかなきゃいけないんだから」
とは中脇初枝氏『わたしをみつけて』にて登場する言葉。

 

のちに哲学関係の本を読みだして、
自分なりの考えをメモするようになったのですが、
メモに書きつけていた中にこんなものがありました。

 

前に読んだ小説に
「名づけは親の最初の暴力」ってあったんだけど、
名前が暴力なら親が子供に願う一方的な“幸せ”も
洗脳や押しつけであり暴力のうちなのかもしれない。

 

前述した訳者あとがきの中で田内氏が、

 

精神科医の岡田尊司氏は
『パーソナリティ障害――いかに接し、どう克服するか』
(二〇〇四年 PHP研究所)
において、
親の期待は子供の自己肯定感を育む支えともなるが、
その期待と子供自身の願望に不一致が生じたり、
子供が「自分にはとても無理だ」と
感じたりしてしまうと負担になるため、
期待の強要は一種の虐待であるということを書いている。

 

と紹介しているのを読んで、
自分の見当はあながちハズレじゃないのかもって思いました。

 

親と兄弟とは、
同じ〈家族〉でありながら決定的に異なる。
後者は暴力を分ちあった、同志といいますか、親より近い存在で。

 

家族小説というものは
親子の関係がクローズアップされるおはなしが多いですが、
兄弟小説というのは相棒感?があって…なんかいいですね。

 

映像で観てみたいなと思いました。
海外ドラマになったらDVD買います。

 

 

 

呪いはいつか祝福へ昇華する


 

 

以前読んでいた思考実験の本に、
「悪の問題」というものがありました。

 

神がもし存在するのなら、
世界はなぜ苦しみに満ちているのだろうか。
苦しみのない世界を創ることはできなかったのだろうか。

 

端的に言うとこういう問題なのですが、
苦しみは自分に還元するものなのでしょうか。

 

物語終盤、
兄妹の苦悩は主人公・アンジーのもとへ収束していきます。
姉の希望を失わない力でさえ彼女に収束するのは興味深い。

 

本書を読んでいると、
苦しみは誰かに昇華するためのものなのではないかと。
誰かに必要な痛みなのではないかと思えるんですよね。

 

誰にでも短所というものは存在します。
潜在的で治しにくいそれはときに呪いのように思えるでしょう。
私の場合は、そうですね、物事を考えすぎるという呪いですか。

 

しかし、
「呪」と「祝」の字はとても似ています。

 

この呪いも、いつか、誰かの祝福の力に昇華できたらいいな。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。