柚木麻子『ナイルパーチの女子会』を読みました。前々から読もうかなと目をつけてはいたのですが、最初に手にとったときは文庫裏のあらすじを読んで断念してしまうなど、紆余曲折あって1~2ヶ月前ようやく購入に踏みきった1冊。ぎりぎりまで「自分にはハマらないかもしれない」と予感していたのですが、なかなかおもしろかったです。自分が信じるに値しない人間だと悟った瞬間。紆余曲折なんだったの?

 

 

 

うしろの正面、だあれ?

商社で働く志村栄利子は愛読していた主婦ブロガーの丸尾翔子と出会い意気投合。だが他人との距離感をうまくつかめない彼女をやがて翔子は拒否。執着する栄利子は悩みを相談した同僚の男と寝たことが婚約者の派遣女子・高杉真織にばれ、とんでもない約束をさせられてしまう。一方、翔子も実家に問題を抱え――。

 

――文庫裏より

普段チェックしているブログのひとつに本書が紹介されていたのがきっかけで読むに至りました。柚木氏の小説はこれまで『王妃の帰還』『本屋さんのダイアナと読んできて、彼女が描く女性の(主に人間関係面での)生々しリアルがたまらん!と楽しんできたので本書も柚木作品としていずれ抑えようとは思っていたんだけど、なかなか踏みだせずにここまできてしまった。たぶん3冊目に読んだ『私にふさわしいホテル』でそれまでほど楽しめなかったせい。こっちの読み心地に近かったら失敗だなと、正直、本を開くぎりぎりまで期待していなかった。最後は尻すぼみになってしまったのが惜しかったけどおおむねおもしろかったです。疑ってごめん。

 

「友達だからだよ」

 

(P106/L12より引用)

 

栄利子と翔子、一応主人公は2人設けられていますが、とにかく栄利子から目が離せません。静かな狂気。悪気のない凶暴性。残酷なほどに無邪気な栄利子の姿は強烈な印象を残しながら心の頼りなくやわらかい部分を容赦なく喰い散らかしていく。

 

「湖に放たれなければ……。ナイルパーチも一生、自分が凶暴だなんて気付かなかったのにね」

 

(P81/L5~6より引用)

 

彼女が内面に飼っているそれが得体の知れないモンスターだったなら、翔子のように、無下に拒むこともできるのでしょう。だけど栄利子というキャラクターのもっとも残酷なところは、読者だけは、彼女の内面に潜むそいつの正体が彼女の心さえも蝕む孤独で凶悪なナイルパーチ――ごくありふれた・・・・・・・生きものである、と知っていること。なぜそうまでして執着してしまうのか。その理由や心情が自分にも理解できてしまうという点が私たちを惹きつけてやみません。

 

栄利子の内面を悠然と泳ぐナイルパーチと目が合うたび、心のどこかで、なにかがごそりと動く気配がする。それは喰われることを恐れる被食者の影だろうか。それとも、彼女の悲痛の叫びを聞きつけて岩陰から顔を出した、私の中に潜んでいるナイルパーチの影なのだろうか。

 

耳もとで無邪気な声がする。「うしろの正面、だあれ?」

 

 

 

友情に恋するお年頃

高校生のときに小説を書いて出版社の新人賞に送ったことがあって、内容はありきたりな、2人の男子高校生の友情とそのいざこざを描いた青春小説だったんですけど、実体験やそのとき自分が思ったこと・感じたことを少なからず彼らに反映させたら選考結果とともに送られてきた選評に「ときに男女間の恋愛感情にも重なって見える」と記載されていて、このとき、男性と女性では友情の価値観がはっきり違うものなのだとまざまざと実感しました。

 

私には男性の友情がどういう空気をまとうものなのか想像することしかできないけれど、女性の場合、恋愛のそれにとても似ているなとは常日頃思っています。羨望、嫉妬、独占欲、駆け引き。「友達」「親友」おまじないでもするみたいにいちいち言葉にして確認をとることで安心できる。男性にとってそれは理解しがたい手間のかかる友情かもしれない、けれど。

 

そもそも、もろくない人間関係なんてこの世界にあんのかよ。女と女も、男と女も、男と男もみんなおんなじだろうが。どんな関係も形を変えたり、嫌ったり嫌われたり、距離を測ったり、手入れしながら、辛抱強く続けていくしかねえんだよ。たかが関係一つ手に入れただけで腹一杯になれるもんか。

 

(P345/L1~4より抜粋)

 

理想とする友情の形があり、自分のあらゆる都合のためにそれをできるだけたくさん獲得して長く維持したい――そういう打算的な一面は男女関係なく、あるいは、大小関係なくあるものだと思います。面とむかって「あなたは私の大切な友達」と言われることで安らぎを得たい人もいる。手段が違うだけで目的は同じ。誰だってひとりぼっちは寂しい。

 

あるラジオ動画に「架空の友達を紹介する」というとてもおもしろいコーナーがありました。文字どおり“ぼくがかんがえた さいきょうの ともだち”についてその人物像やエピソードを紹介するコーナーなのですが、リスナーから送られてきた架空の友達エピソードにはそれぞれが思い描く理想の友情の形があり、そこに男女の差はなく、ただ「こんな友達が欲しい!」という純粋な気持ちだけが伝わってきて、聴いているだけでなぜだかこちらまでわくわくしてくる、じつにほのぼのとしたコーナーでした。

 

若い頃は「恋に恋するお年頃」なんて言葉をよく耳にしたものですが、高校や大学を卒業してそう簡単に気のあう友達がつくれなくなってくると、栄利子や翔子のように漠然と「友情に恋するお年頃」がくるものなのかもしれませんね。それなら、いつかまた、夢と現実は違う、だけどそれでもいい、と悟れる日がくるでしょうか。彼女たちにも、私たちにも。

 

ナイルパーチが水面から顔を出したとき、その目に最初に飛びこんでくるものが、やわらかな太陽の光であればいい。最後の数行で描かれる情景を頭に描いたとき、そんなふうに願わずにはいられませんでした。

 

 

 

「ダチ一生」じゃなくてもいい

昔、「男一瞬ダチ一生」なんて教訓めいた言葉が流行り、子供心にぞっとしました。

 

まるで恋愛と友情は別物のようにいうけれど、どちらも突きつめれば人と人のつながりなのだし、もちろん一生ものであればそれはとても素敵なことだけれど、妥協や我慢をして維持しつづけなくてはならないものではないと思う。以前どこかのネット掲示板のまとめで「友達は結局その都度変わる一過性のもの」みたいな書きこみを読んですごくしっくりきました。

 

「そりゃ、どんな関係にもピークはあるかもしれないよ。(中略)どちらかにもっと合う友達が出来て、どちらかが寂しさに耐えられなくなって、ぎくしゃくして離れていくかもしれない。やがて進級して、大学も別々になって、もう名前さえ思い出さなくなるかもしれない。でも、二人が大人になった時、街でばったり出会う可能性はあるよ。その時、数分でいいから気分良く立ち話が出来たら、それで十分なんじゃないのかなって私は思う」

 

(P387/L9~14より引用)

 

圭子が言うような友情があっても、私は、いいと思います。友情がすべて「ダチ一生」なんて不変のきらきらしたものではなく、流動的で特別じゃない、もっと自由であっていいものだ、という考えかたが本書をきっかけにもっと広まるといいな。

 

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。