千早さんの小説は高校生だか大学生だかの時分に『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』を読んで以来だったんですけど、第一印象と変わらない、幻想的で蠱惑的な美しい文章でした。拠点となる洋館には主人公・一香以外の女性はおらず、調香師の朔、探偵の新城、庭を管理する源さんとまわりは男性が固めますが安易にハーレムとか唯一の女性である一香をチヤホヤしないそれぞれの距離感が絶妙で良いですね。

 


 

連作短編と捉えてもいいのですが、どちらかというと一香と朔の繊細で危うい距離感が主題になった長編という印象。一香と朔の関係は、個人的には天乃忍『片恋トライアングル』の関谷さんと結城くんを彷彿とさせました。めちゃくちゃ好きなんだよねあの漫画。事態を進展させるきっかけはあるし実際に進展はしているんだけど、結局なにもはじまらない、はじまらなかったというところに個々人にとって重大な意味がある。その儚さといじらしさがなんともいえない読後感につながっていきます。

 

それから、興信所に勤める新城という正真正銘の“探偵”がいながらミステリーと呼べるほど鮮やかな推理はなく、しかし起こっている事象は間違いなく異常で、なぜか肝心の探偵役は朔であるという構造はかなりおもしろいなと思いました。「探偵」という肩書きを与えられた新城がじつはふりまわされている側で、彼の相棒とその助手役たる聡明で冷静な朔や一香が、穏やかに、ゆっくりと、丁寧に狂っている。

 


 

「香りは脳の海馬に直接届いて、永遠に記録されるから」

「永遠、ですか」

 

(P49/L12~13より引用)

 

香りといえば、私はたとえば電車で偶然となりの席に座った人とか、至近距離にいる人に「風邪菌のにおい」を感じるんですよね。身内が風邪を引いたときに同じにおいがするので暫定的にそう呼んでるだけで具体的にどんなにおいかを言語化するのは難しいんですけど、硫黄っぽい……のかな、とにかく不快で。耐えられない。露骨に顔や態度に出てしまう。

 

前にそれを人に話したことがあるんですが、幻臭じゃないのか、と言われていて。そういうにおいがするような気がしてるだけじゃないかって。それで、読みながら考えていたんですけど、なるほど私が前にこういうにおいの人と至近距離でならんで座ったとき「嫌だな」という感情が記録されたんだとしたら、同じシチュエーションで同じ感情が想起されたときにおいの記憶が引きだされるってことがあるのかもしれない。だとしたら「幻臭」という言葉はあながち間違っていなくて、なんて忌まわしい呪いなんだろう、と。

 


 

この小説は香りだけでなく料理の描写もかなり丁寧ですが、それはたぶん、香りも味も「身体に入れるもの」だからなのだと思います。昔とある小説で歯は唯一外から視認できる骨であると気づかされて、以来口――ひいては食事って自分たちが思っている以上に生々しい行為なのではという考えが頭から離れないのですが、そう考えたら鼻だって、常時開いているという点ではむしろ口以上に本来体内を強く意識させるパーツで。

 

私たちは、口や鼻からとりこむものに対して、本当はもっと真剣に考えなければいけないのかもしれない……と、ちょっぴり怖くなるなど。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。