三崎作品といえば中学生だか高校生だかの頃『となり町戦争』から『廃墟建築士』まで首をかしげながら読んだものですが、10年ぶりに『チェーン・ピープル』を読んだらめちゃくちゃ好きなやつだったので『バスジャック』と『鼓笛隊の襲来』と『廃墟建築士』は絶対に読みなおさなきゃ(使命感)と思いました。

 

 


 

正義の味方

 

相変わらず、私にとって彼はヒーローであり、戦い続ける孤高の姿が色褪せることはない。だが、そこで戦う相手は「敵」ではない。彼が立ち向かうのは、我々の無関心であり、忘却であり、流されやすい心でもある。

 

(P53/L15~16より引用)

 

完全にウルトラマンなんだけど、議論ばかりで具体的な策はまったく講じない政府とかマスコミによる偏見報道に世論操作、社会に容易く踊らされる民衆……ファンタジーに対するおそろしくリアルな描きかたは『シン・ゴジラ』とか『巨影都市』を彷彿とさせます。

 

言葉の発明はわからないことがこわい私たち人類にとって救いではあるけれど、まわりに定義というラベルをベタベタ貼って決めつけてしまう側面もあって、さらに厄介なのはその定義自体大多数に通用する社会的な意味とごくごく個人的な意味とを各々が持っていることですよね。

 

ここで由宇が着目したのが、外国語だったのだという。相田によれば、たとえば英語では、明るい青も暗い青も、基本的にはブルーと呼ぶ。ところがロシア語では、明るい青と暗い青とを呼び分ける。必然的に、知覚できる青色の種類は増えてくる。そこで由宇は、世界各国の触覚に関する単語を集め、自分の中に蓄えていった。強くなるため、言葉をやしていく――かつて、そのような棋士がありえたろうか。こうしたプロセスを経て、由宇は自分の感覚を磨き、より精密なものへと育てあげたということだ。

 

(宮内悠介『盤上の夜』P37/L12~17より引用)

 

宮内悠介『盤上の夜』の表題作の中で、四肢を失ったある女流棋士は基盤を肌で感じることができる己の感覚を磨くため言葉に着目します。私たちが「正義」という言葉の定義に負けないために必要なのはまさしく彼女のような姿勢――すなわち、世界はグラデーションであるという哲学的な思考をもつこと、その色彩の細部を知るためにたくさんの言葉を知ること、彩られていく自分の内面世界に責任と覚悟をもつこと、なのではないでしょうか。

 

 

 


 

似叙伝

発想が「オーダーメイド恋愛小説」と完全に一致。

 

だが、許される「捏造」もまた、あるのではないか。
人が伝えたいことは、真実ばかりとは限らない。嘘であるからと言って、それが頭から否定されるべきではないだろう。

 

(P102/L12~14より引用)

 

なぜ小説が好きかというと、私の場合、〈物語〉というオブラートに包まれている安心感にこそ作者の本当に訴えたいメッセージが如実にあらわれる、と考えているからなんですね。直接顔を見て伝えるよりもLINEでメッセージを送ったほうが素直になれるという人も昨今では少なくないでしょう。似叙伝もそれとまったく同じこと。どんなときも重要なのは情報を受けとり解釈する側の心がけと技量、ではないでしょうか。

 

わたしたちにはその法則が確実で自明に思えるだろう。だが、催眠術にかかっている人にとっては、六の次に八がくるのが確実で自明に思えるかもしれない。時計が実際には四時を告げたことを道行く人の誰もが知って、、、いるとしても、夢の中で思いちがいをした人にとっては、一時を告げる鐘が四回鳴ったことが確実で自明に思えるかもしれない。

 

(ジュリアン・バジーニ『100の思考実験 あなたはどこまで考えられるか』(向井和美・訳)P21/L1~5より引用)

 

確証バイアスなどに代表されるように、そもそも人間の脳には自分が真実だと思いたいことだけを「真実」と見なす機能が無意識に備わっています。言葉が定義というレッテル貼りだとしたらそれは暗黙の了解で行われている「許される「捏造」」であって、客観的な、揺るぎない絶対の真実なんて本当に存在するのでしょうか?

 

言葉による世界の捏造はSCP-8900-EXにも通ずるような気がします。

 

 

 

 


 

チェーン・ピープル

 

「平田昌三の性格付けもまた、時代の変化や社会との関係性に応じて協議され、修正が加えられていきます。我々は、あるべき平田昌三像に自らを近づけるべく日々努力を重ね、その個性を身に付けてゆくのです。だとしたら、個人としての個性を持つことと、平田昌三としての個性を持つこととの間に、いったいどれほどの差があるでしょうか?」

 

(P144/L3~6より引用)

 

これを石川宗生『半分世界』収録の「吉田同名」的に平田昌三が姿を変えて分裂していると考えれば奇妙な話ですが、平田昌三とは〈理想像〉であり、チェーン・ピープルに属する彼らと憲法や道徳や宗教等で示される国民像・人間像であるべきだと教えられ育てられ今も研鑽を重ねる私たちとは、じつはなんら変わらないのではないか……と考えると、むしろそのほうがなんだか奇妙でゾッとするのは私だけでしょうか。

 

「あなたは、チェーン・ピープル平田昌三として人を殺したのでしょうか?」

 

(P136/L6より引用)

 

「平田昌三@429」による殺人事件は人格と人格のあいだに起きたものなので慎重に答えを探さなければなりませんが、私もまた「佐々木麦」という名前と人格とは別に本当の名前と人格をもった人間ですので、一表現者として、表現者とコンテンツは同一と扱われるべきなのか?ということを考えたりもしました。そのあたりの模索は小説にしたことがあるので興味があったら読んでいただけるとうれしいです。いともたやすく行われるえげつない宣伝。

 

 

 


 

ナナツコク

 

スポーン地点から、まっすぐ、当てもなく歩きつづけると、上下左右でポツポツと積みあがっていくブロック。佐波の話に耳を傾けるうち自分の心の中にもナナツコクの地図が生成されていく様子はまるでマインクラフトをプレイしているような感覚で胸が躍りました。読書それ自体も似た行為かもしれません。文字を追うことは地図の生成であり、そこに登場人物が暮らしはじめ、物語が終わってもなお生きつづける。

 

「ナナツコクの地図は、私の心の中だけにあったの。失われたとしても、本当になくなったものなんて何もない。それなのに、この喪失感は、いったい何なんだろうね」

 

(P181/L13~14より引用)

 

本書を読了した数日後、奇しくもPC版アメーバピグが10年の歴史に幕を下ろしました。

 

 

私はこれといった思い出もないまま飽きてしまったユーザーですが、あそこに仲間や居場所を見出したユーザーも多くいたことでしょう。1つの仮想現実の終了と喪失感はナナツコクの崩壊を彷彿とさせますね。サービス終了のその瞬間、知らない誰かがTwitterに「ひとつの世界がたしかに終わった」と、そんなふうにつぶやいていたのが印象に残っています。

 

「あんた。それが仕事なのかもしれないけど、人の心の中なんて、不用意に覗くもんじゃないよ。どんな世界が広がってるかなんて、わかったもんじゃないからね」

 

(P191/L6~7より引用)

 

本の世界、ゲームの世界、インターネットの世界、自分の内面にある世界……ここでないどこかに身を置くことはときに理解されがたく批判もされます。ただ、言葉には社会的な意味とごくごく個人的な意味とがあるのではないか、という話を先ほどしました。今眼前に広がっている世界が必ず自分にとっての世界とイコールである必要は、私は、ないと思うんですよね。

 

ナナツコクが本当に存在したのかどうかは重要なことではなくて、私はただ、彼女が社会的ではなくごくごく個人的な幸せを感じられる場所に今いることを願ってやみません。

 

 

 


 

ぬまッチ

 

着ぐるみのはずなのに着ぐるみを着ていないというのは〈わらび舞妓ちゃん〉のさらに先にある衝撃だし、それを存在しないものを「見せる」パフォーマンスだと考える趣向はかつての『バスジャック』収録の「動物園」の異様さを思いださせ、市長との対立はふなっしーと船橋市の関係がより激化したさまだし、ぬまッチが人気者へのしあがったきっかけである人気投票の悪ノリは完全にコイル祭り。もうね、いろいろ思いださずにはいられません。

 

 

その関係を思う時、私が思い浮かべるのは「宮廷道化師」だ。
中世の為政者が、宮廷に道化師を置き、歯に衣着せぬ物言いを許していたのは、専横的になりかねない自身を戒めるための「鏡」であり、「ブレーキ役」としての役割が、意識的、無意識的に期待されていたからであろう。

 

(P233/L7~10より引用)

 

以前Twitterで興味深い画像を見かけました。なんでも、コミュ力があると言われる人でも「相手の興味に興味をもつ」と「自分の興味を伝えたい」の割合はせいぜい3:7。9:1または10:0の人などいないし、いたら奇跡。なるほど。

 

ピエロの顔になぜ涙がペイントされているかって、一説には「馬鹿にされながら観客を笑わせている悲しみ」を表現しているといわれているわけですよ。自分は三枚目だと言う人は世の中にごまんといますが、はたして、神崎氏のように“着ぐるみ”を着て10:0の道化師を演じきれる人間がその中にどれほどいるのでしょうね。

 

 


 

応援

 

応援とは、果たしてどんな時も、人を励まし、奮い立たせるものだろうか? ストレスや心理的圧迫から心身消耗状態に陥った人物に「頑張って!」と言い続けることは、却って本人を追い詰め、逆効果しか生み出さないことは、誰もが知る所だ。

 

(P271/L15~P272/L1より引用)

 

そもそもね、私は前から甚だ疑問だったんですよ。なんで「がんばれ」って上から目線の命令口調なの?「応援」って励ますことが主目的なのに、言葉の設定を微妙に間違えたせいでつねに「おいつめ」になりかねない危うさを孕んでしまってる。

 

時代や社会の変遷とともに、言葉も、もっと柔軟に変化して然るべきだと私は思うんですよ。足を引っぱりあってみんなで最低ラインに留まることを是としている今の社会だからこそ「がんばれ」に代わる励ましの言葉が生まれるべきだと。

 

先ほどの10:0の話を応援に当てはめると、「がんばれ」って言葉は「がんばってほしい」っていう応援者の私利私欲が混ざっていますよね。絶対に10:0ではないんですよ。「ぬまッチ」の道化議論と同じ着地点になってしまいますが、それができる人間が今の社会にどれだけいるだろう、という話に尽きる。

 

自分のために他者を応援することが悪だとは思わないけれど、応援が「おいつめ」になってしまわないために。ときには応援しない・・・という選択肢を選べる人間になりたいものです。

 

 


 

 

民衆に「正義」の像を問うたヒーローは帰星後やがて銅像になり、似叙伝は選ばなかった人生を想像し、チェーン・ピープルという理想像にむかって邁進する者たちがいれば、ある者は想像の地図に禁忌を犯す。着ぐるみという虚像。芸能人という虚像。

 

『チェーン・ピープル』に共通するテーマは「像」だったのだと私は考えています。手を変え品を変えの6編どれもに静かな絶望感や虚無感を覚えるのはおそらく、「像」に対して崇拝と崩壊をくりかえす人々の根本的な人間性がいつまでも変わらないせいなのでしょう。そして私たちもまた、本書を離れれば、情報に踊らされ、容易く手のひらをひっくりかえす、社会に蔓延する「世間」という像に縛られている。

 

本を閉じた暁には、私たちは、自らの意思と努力でこの像を塗り替えよう。心ない者によって塗り替えられたその像を、私たちは同じ塗料と手とで、本来あるべき姿に塗り替えることだってきっとできるはずだから。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。