高瀬隼子『水たまりで息をする』を読みました。読了から一晩経ちましたが、なんか、すごいものに出会ってしまったなぁという気持ちです。久しぶりに。初めて今村夏子の『あひる』を読んだときみたいな。とても現代的で、かつ寓話的でもあり、まさしく水たまりのような意図的につくられた芸術的な閉塞感。

 

そういえば、雰囲気は『星の子』に似ているかもしれない。あちらは狂気の中にも親子の愛情があったからまだ救いが感じられますが、こちらはまず文章が淡々としていて、二人きりなのにいっそう孤独で、狂気は日常の延長線上にあるから絶望感がすごい。「水たまりで息をする」とは本当によく言ったものだなと。それは、最終的に田舎でひっそりと暮らすまでに加速してしまったとも、誰にもなにも言われない場所でようやくまともに息をすることができるとも解釈できる。

 

今村夏子との類似点といえば、高瀬隼子が使う「彼女」という単語も新鮮だった。

 

小説における人称とはいわばカメラアングルのことで、「私」が一人称、「あなた」が二人称、「彼/彼女」が三人称というのが普通なんだけれど、本作は「衣津実」と「彼女」を交互に使うので三人称というより二人称の印象が強くなっているんですよ。二人称を成立させるにはたとえば「今、あなたはどこの馬の骨とも知れぬ読書ブログを読んでいる」というように読者(あなた)の行動を正確にあらわさなければならないので理論的に無理なんだけど、本作には衣津実とは明らかに異なる客観的な視点……いうなれば作者自身の目がはっきり存在していて、作者と衣津実においてであれば二人称は成立しうるからこの不思議な読み心地になるんだろうなと。個人的に、この技量はすさまじいなと思ったのでした。

 


 

さて、内容を簡単に整理すると、突然風呂に入らなくなった夫に戸惑いながらも、衣津実は妻として彼の意思を尊重し、二人で生きていくための選択をしていく――という話でしたね。

 

もしかして、今、夫は狂っているんだろうか。

彼女はそれが分からない。どちらなのか知りたい。一緒に暮らしているのに、違うものが見えているように感じる。置いてけぼりをくらうかもしれない――そう思いついて、どこに置いていかれるのだろう、と考える。スリッパを履いているのに、足裏が急に冷たい。

 

(P47/L16~P48/L1より引用)

 

私も、8年?ぐらいつきあっていた人と3ヶ月前に結婚したのでこのへんはめちゃくちゃよくわかります。8年もつきあって未だおたがいにわかりあえないところはあるし、むしろ結婚して一緒に暮らしはじめたことで見えてきたことだってある。

 

悲しげに眉をひそめる夫とは反対に、彼女は笑みを浮かべていたが、彼女もまた悲しい気持ちでいた。夫には、彼女の人生くらい強制する気持ちでいてほしかった。わたしばかりが夫と二人で生きていくのだと決めているみたいだ、と彼女にはそれが悲しかった。夫は今にも、おれ一人で大丈夫だよ、と言ってしまいそうだった。付いて来なくていいよ、と夫に言わせたくなかった。夫が狂ったのは、彼が一人でも生きていける証だと思った。

 

(P104/L10~14より引用)

 

それを強制するのか尊重するのか、答えは人によって違うけれど。ただ、どちらか一方ではだめなんだなと

 

たとえば、『Tales of ARISE』というゲームでは「赦すこと」が1つのテーマになっていました。自己犠牲を提案してしまうシオンをアルフェンは赦し、それでも彼女を救いたいと思うアルフェンのわがままをシオンもまた赦します。これは衣津実が夫を尊重するのとは違う。尊重が相手に主眼を置くのに対して、赦すことの下地には赦す側の主観があるからです。ここを、間違えてはいけない。

 

衣津実は風呂に入らない夫を尊重しました。妻として、これからも彼と二人で生きていくために。

 

赦すことが愛だとしたら、彼女のそれは、結婚してなおむしろ恋だったのではないかと思ってしまいます。

 


 

人がそれを習慣にするまでには6ヶ月かかる、という話を聞いたことがあります。対して、習慣を断つことのなんと簡単なことか。

 

夫がある日突然風呂に入るのをやめたとき、私には、はたして対話する覚悟があるだろうか。「夫だから」と無条件に、無責任に尊重するのではなく、ときに相手を傷つけたり嫌な気分にさせてでも自分の人生をかける勇気。そのうえで、どれだけ時間をかけようと周囲に非難されようとおたがいの妥協点を探しつづける根気。

 

優しくするよりも、赦せる人間に私はなりたい。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
読んだ小説の感想や考察を書いています。好きが高じて元小説家志望なので、一篇の物語のように心躍る記事が書ければ。ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれます。小説の他に哲学、美術、神話などの学術本も好きです。