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スティーヴン・ミルハウザー『私たち異者は』(柴田元幸・訳)を読みました。最近とんと観ていないけど、タモリはさ、今でも「次に奇妙な扉を開けるのはあなたかもしれません」みたいなこと言ってるわけでしょ? でもさ、この小説は違うんだよ、自分のほうから扉開けて入ってくるの。巧妙に、ちょっとずつ、ちょっとずつ。あとはただ穏やかに絶望。こわい。

 

 

 

ミリ単位まで見逃さないリアルタイムの“侵入”

通りすがりの男がいきなり平手打ちを食らわせてくる事件が続発する「平手打ち」。いつのまにか町に現われ、急速に拡大していく大型店舗をめぐる「The Next Thing」。空から謎の物体が到来する「大気圏空間からの侵入」。〈異者〉となった私と二人の女性との奇妙な交流を描く表題作など、精緻な筆が冴えわたる味わい深い7篇。

 

――カバー袖より

残念ながら本書が初読なのでこれがミルハウザー作品全体の作風なのかとかそこまではわからないんですけど、住民を無差別に平手打ちする襲撃者、ある日彼女の左手を隠すようになった手袋、闇や病のように流れこんできたある思考、文字通り「大気圏空間からの侵入」者、書が人間に侵入することで生まれた民、町に新しくできた大型店舗、異者が身をよせた屋根裏と異者の孤独に入りこんだ生者……私はこの小説、“侵入”の物語だと解釈しています。

 

奇妙な話の構成って、ほとんどは奇妙の要素が主人公の世界に侵入する過程は大ぶりに描かれているんですよね。1から2、3、4と。ところが本書の侵入は1から2までの過程すらミリ単位かつリアルタイム。伝わるかな、小数点以下まですっごい緻密に描いているわけです。

 

たとえば、風呂につかるという光景が「足先が水面を裂いて、トプン、と奥へ奥へ沈んでいく……肌に湯がまとわりつき、それはまるで、子供が犬をなでるときのようなしつこさのようでもあった」とか書かれていたらなんとなくゾッとしません?そういうことなんです。その緻密ゆえの気持ち悪さが各作品の抜群の調味料になっている、そこが特筆すべき魅力なのでしょう。

 

たいていの人が想像するのとは違った展開で紡がれる奇妙な話なので、それをおもしろいと捉えるか意味がわからないと捉えるか、好みはわかれるかと思います。

 

 

 

日常を奇妙にする侵入者たち

平手打ち

9月のある晩、ウォルター・ラッシャーは駅の駐車場で2台の車のあいだからあらわれたトレンチコートの男に突然平手打ちを喰らう。警察には通報しなかったラッシャーだったが、以後、男は次々と人々の前にあらわれ平手打ちをくりかえしていく。突如あらわれた「襲撃者」に町の人々は――。

神出鬼没、無差別に通行人を平手打ちする謎の男。

 

まるで奇妙な話のように書かれていますが、高校生のときにね、自転車にまたがった少年が背後から猛スピードで近づいてきてすれちがいざまに尻や胸を触らr……いや、なんだろ、どつかれる?という執拗な新手の痴漢に遭った経験のある私ですから、この物語、むしろすごくリアリティを感じるな。

 

それに、今年5月にも香川県高松市で女子児童が男子高校生に自転車で衝突したうえ顔を殴られたという事件がありましたよね。この男子高校生、わざわざ「大丈夫?」と声をかけたあとに女子児童を殴って立ち去っているんですよ。私はつくづく人間というものがわからない。

 

 

前に、「見ろ、〇〇だぜ」「〇〇といえばあの有名な〇〇家の子息じゃないか!」みたいな視聴者のための説明をわざわざ声に出して言ってしまう(言わせてしまう)アニメの非現実な白々しさがダメだぁ!って話を友人としていたんですよ。そしたら友人が言ってました。「会話とか仕草とかの、意味のないことに慣れていないんだね」って。目から鱗、5枚ぐらい落ちた。

 

なぜ平手打ちだったのかとか、被害者7人の共通点とか、男がトレンチコートを着ていた理由とか、たぶん意味なんてなかった。あったとしてもそれは私たちが理解できるものではなかったのだと思います。悲しいかな私たちは「読者」だから、いつまでも、意味を問いつづける。作者はどうしてこんな小説を書いたんだろう。私はどうしてこんな小説を読んだんだろう。理由は。目的は。意味は。この読後感こそが「平手打ち」で描かれるテーマの体現であって、読者のこの読後感をもってはじめて「平手打ち」という作品は完成するんだなと、そんなふうに感じました。

 

個人的には「平手打ちの分析」と「平手打ちされざる私たち」の一節が興味深かったです。

 

 

 

闇と未知の物語集、第十四巻「白い手袋」

高校の最終学年で、〈僕〉は物静かな女の子・エミリーと友だちになった。やがて一緒に帰るようになり、彼女の家族にもあたたかく迎えられ、2人の距離は次第に近づいていく。ところが、ある日エミリーは学校を休み、そして左手に白い手袋をして登校するようになる。気にしないようにすればするほど、〈僕〉の視線は彼女の左手に注がれるようになり――。

エミリーの文学少女然とした佇まいとか、歓迎されながら〈僕〉がエミリーの家庭に溶けこんでいく様子とか、自分の過去の恋愛に重なる部分もあって親近感やなつかしさを感じながら微笑ましく読んでいました、最初は。ところがどっこい。途中からだんだん「布に覆われた未知の領域を想像する」という思春期の男の子にとってあたりまえのありふれた光景がこんなにも胸をざわつかせるんだから不思議。この落ちつかなくなる感じ、ぜひ読んで体感してほしい。

 

とくに6章、月明りの下、〈僕〉がなにかに突き動かされるようにエミリーの部屋に忍びこんで彼女の左手を覆う手袋をこっそり脱がしてしまおうとするシーンが!尊くて!すごくいい!

 

それは僕を待っているように、いくぶん僕をからかい、挑発しているようにさえ見えた。さあ、あなたと私でここにいる、あなたどうする気です? 僕は手をのばして、下の方のボタンに、人差し指の先で触れた。

 

(P76/L18~P77/L2より引用)

 

ウソみたいだろ。彼女に内緒でこっそり手袋を脱がせちゃおうとしてるだけなんだぜ。それで……。どう、この、達也と南も驚愕のイケナイことしてる感。

 

大事なことだからもう1回だけ言うね。手袋・・なんですよ。アトピーとか乾燥肌の人ならわかると思うけど、あの、掻きむしりを防止する医療用?の白くて薄手のやつ。そこに隠れた手がどうなっているのか、ちょっと、見てみたい。たったそれだけの衝動がどうしてこうも幻想的で!背徳的で!切なく!瑞々しいのか!ハァ━━━━(*´Д`)━━━━ン!!

 

一緒に過ごす時間が長くなればなるほど、人と人のあいだには、言わなくていいこと・言わないほうがいいことが増えていく。だけど、好きになればなるほど隠しごとが憎くなって。見えないところを受けいれること、見えないところまで信じることが人を愛するということなんだなと、考えてしまう。

 

野原とか、川べり、海、外へつづく扉を開けた瞬間。なんていうのかな、光の粒が四方八方できらめくような場面ってあるじゃないですか。そういうまぶしい光景をイメージしてしまうんですよね(遠い目)。尊い。とりあえず合掌しとこ。

 

 

 

刻一刻

9歳。じき10歳になる少年・ジム。彼は今、家族とともに大好きな川へ来ている。一日が動きだそうとしている。ずっと楽しみにしていた一日が。はじめる準備はできている。ところが浮き輪を転がしながら歩きだした途端、少年の心にある思いがかけめぐる――。

水着はきつきつだけどだぶだぶ。マシュマロは「ふわっと柔かいメロー」のにマロー。反対語や一文字違いの言葉遊びをふんだんに使ったのは、今まさに成長過程にある少年の、心の不安定さを象徴しているのかな。

 

このおはなし、三人称で書かれているんですよ。人間の内面的な成長って普通、一人称で主人公本人に語らせたほうが絶対に楽じゃないですか。なのにこの圧倒的な情景描写の中で「あ、この子今成長したわ」って読者にははっきりわかる。普通は「気づいたらなっていた」くらいの、忘れているはずの“成長”という瞬間を、まさに刻一刻、リアルタイムで克明に描写しているんですよ。小説を書いた経験のある私からすると、単純に、作者のその技量がすごい。

 

高校生のとき、小論文の問題集で「『卵』という言葉を使わずに卵を描写しなさい」みたいな問題を見つけておもしろいなと思ったのですが、「刻一刻」はまさにそういうおはなしでした。

 

 

 

大気圏空間からの侵入

午前十時過ぎ、空から突如、黄色い埃が13分間降りつづいた。ニュースによれば、それは光合成によって分裂をくりかえすいわば生きた埃らしい。埃に侵入された世界で、最初からずっと用意ができていて起きることを求めていた私たちは――。

あるとき空から正体不明の黄色の埃が降ってきて世界を覆ってしまう、というSFめいたおはなし。個人的には最近レンタルDVDで観た「ザ・ミスト」なんかを想像してしまうけど、「起きるに決まっていることを私たちは知っていたのだ」とかいって、住民まさかの塩対応。至極冷静に、淡々と、この異常事態を受けいれてしまうのです。メンタルがストロング。

 

最初は「なんだこの話」と呆然としていたのですが、読み終えたあとで、気づいてしまったのです。

 

そうして、ついにそれが起きたとき――なぜなら起きるに決まっていることを私たちは知っていたのだ、時間の問題だとみんな知っていたのだ――ついにそれが起きたとき私たちは、好奇心と恐怖の只中で、ある種の落着きを感じた。慣れ親しんだものを前にした落着きを私たちは感じた。こういうとき自分に何が期待されているのか、私たちにはわかっていたのだ。

 

(P111/L4~8より引用)

 

ああ、この感覚を私たちも知っているはずだ、と。

 

災害。犯罪。政治問題など。いつから私たちは、不安や恐怖よりも先に「またか」なんて淡々と思ってしまうようになったんだろう。目に見えて、自分自身が実感できないと、危機感を抱くことができなくなってしまった“平和”な社会。

 

黄色の埃に対する人々のドライな反応は、そんな社会への風刺だったのではないかと今は思うのです。

 

 

 

 

書物の民

あのー……なんか、ね、全校集会のノリで校長先生的な人が“諸君”にむかって「書物の民とはなんたるか」を語り激励しているようです。

いや、聞いてよ。

 

ここまで「刻一刻」「大気圏空間からの侵入」と10ページくらいしかない短編のあらすじ、どうにかがんばって書いてきたけどね、いやー、もういよいよわけがわからない。あらすじとかない。全校集会のノリで校長先生的な人が“諸君”にむかって「書物の民とはなんたるか」を語り激励しているようです、としか言いようがない。この短編であらすじを書けるという人がいるなら教えてください。ここに掲載させてほしい。500円で。

 

要するに〈書物の民〉というのは天地創造の際に創造主が最初の言葉を吹きつけたという〈第一の書〉を起源とし、すべての書物は彼らの祖先であり、生涯にわたり学問の営みに身を捧げる民らしいんですが……まぁたしかに、最初の人類であるとされるアダムとイブについて記した聖書もまた「書物」だし、すべての著者にとって自著は子供のような存在で、本そのものを師と仰ぐ人も現実にはいるわけで、あながち私たちは皆書物の民だという解釈もできなくはないか。可能性無限大だなぁ。神話とか宗教とかもそうやって思想の無限の可能性で受け継がれてきたのかもね。

 

一方、実生活の様々な義務は、男女両方の、十五歳を過ぎた時点で、厳格なる学問の高みでは生きるに能わずと判明した者達に委ねられ、この人々が、我等が民を支え、滋養を与える大切な責務を果たしているのです。

 

(P123/L6~8より引用)

 

生涯にわたり学問の営みに身を捧げる民というのは魅力的だけど、うーん、この世界に住んでいたら私は間違いなく民の生活を支える側の人間だったんだろうな。

 

その前に、この世界には〈掟の書〉というものがあって、それによると、第一禁則は「汝、書物を、或いは書物の如何なる部分も、破壊、断裁、その他如何なる形であれ損なうべからず」。禁を破った罰は死。日がな本に線を引いたりページを折ったりしている私はつまり確実に死ぬようだ。あっぶねー、よかった書物の民じゃなくて。読書家というより愛書家の人のほうがむいていそうな世界ですね。

 

本が好きだ!本を愛している!と豪語する人にぜひ読んでいただきたい一編。書物とともに生きていくとはどういうことか――、その真髄がわかるやもしれません。

 

私は読書家どまりでいいや(遠い目)。

 

 

 

The Next Thing

〈私〉の暮らす町に新しく建てられた「The Next Thing(次に来るもの)」という建物。そこは商品も豊富で、リラクゼーション施設なんかもあり、カジュアルで華やいでいてじつに快適そうな空間だった。常に発展と進化を遂げる施設に人々は夢中になっていくが――。

くどいようですが、文章はひたすら町や建物の情景描写で退屈ですらあるのに、設定や展開はこれめちゃくちゃおもしろいんですよね。もちろん最後まで読めば退屈な文章であることも世界観を補足させるための作者の計画のうちだってわかるんだけど。じわじわこわい。巧い喩えが浮かばないんだけど、なんていうのかな、「1匹見つけたら100匹いると思え」って言われたときみたいなこわさ。

 

色んなバリエーションのブースがあって、届かないほど高いところまで伸びた商品棚、必要なものは全部ここだけでそろえられてしまう。私は巨大なコストコやIKEAをイメージしたけどあってるかな。そんな謎の施設「The Next Thing」が、町を、果ては世界を侵食していく……いかにもやりすぎ都市伝説で関暁夫が語りそうなストーリーだけど、

 

町は見えるのかと若者に訊いてみると、相手は笑って、ここがもう町ですよと答えた。

 

(P152/L15より引用)

 

なにかが流行ればアホみたいに店やスポット、コンテンンツが右に倣えで乱立する今の世相を見ると、ああ、あながち奇妙な話でもないかな、と。

 

上の暮らしの方がいいという声も聞こえるが、それはどうだろうか。人はいつだって、よその場所をそういうふうに言うものではないか?

 

(P159/L10~11より引用)

 

要するに、ないものねだりという普遍的で日常的な業の深い話だったのだと思います。

 

作品の中で、人間は幸福になりたい不幸な人間ともっと幸福になりたい幸福な人間の2種類いるというくだりがありますが、幸福も不幸もどちらもあってあたりまえ。私はそんなふうに思える人間でありたい。

 

 

 

私たち異者は

〈私〉こと50代の医学博士、ポール・スタインバック氏はあるとき、ベッドに横たわっていて、そして、ベッドの外からベッドに横たわる自分を見ていた。“あなた方”とは違う“異者”になってしまった〈私〉は絶望の果てにある女性の家の屋根裏部屋に居座るようになるが――。

異者って大変だなぁ。

 

およそ100ページ、収録作品の中でもっとも長い表題作で思ったこと、それだけ。逆に。

 

これまでは異様なほどの風景描写に圧倒されてきたけど、最後に、怒涛の心理描写。なんせこの〈私〉ったら医学博士なもんでね、めちゃくちゃ、観察するし分析するの。疲れる。見た目モルディカイで想像してたけどたぶん全然違う。シャドバはやってない。

 

さて、医学博士という立場から一転、あるとき突然それまでとは真逆の“異者”という存在になってしまった〈私〉。彷徨ううちに居心地のよい屋根裏部屋を見つけ、彼の気配を感じることのできるモーリーンという女性といつしか夜のつかのまの時間を過ごすようになるのですが、彼女の姪・アンドレアの登場で〈私〉はさらなる絶望へと沈んでいくことに。

 

私たちはあなた方に取り憑くと言われている。あなた方が私たちに取り憑くと言った方がずっと真実に近い。

 

(P235/L18~P236/L1より引用)

 

異者(死者)を主人公にすると普通「恐怖」がとりのぞかれてコメディやラブストーリーになりがちなんですけど、生者と死者の立場が逆転して「恐怖」のままありつづけるって発想はおもしろかったです。モーリーンやアンドレアとは別に〈私〉は「あなた方」という表現を多用するのですが、最後にそのエッセンスがじわじわ効いてきて、これもいい。読了して改めて表紙を見たらすんごいこわかった、真夜中だったし。

 

ある意味ファム・ファタール的な。インターネットにおける匿名性もそうだけど、ある要素が圧倒的に欠けている人に、人はかえって安心感を抱いてそのうち依存すらしてしまう性なのかもしれませんね。

 

 

 

結局わからないんですよ でも好き

とはいえ、A6ノート8ページにもわたる書きなぐりの思考の断片をどうにかこうにかこねくりまわして感想という形にしたところでね、結局わからないんですよ、ここに収録された作品って。あるいはもしかしたらミルハウザー作品って。実際、私の感想を読んでもどんな内容なのかわからなかったでしょ?

 

そう、だけど、たまらなく惹かれてしまう。なんとなく読んでしまう。やっぱり意味がわからないんだけど、でも、結局本棚にきちんとしまっている。奇妙な話というのは「わからないこと」こそ真髄なのだと思います。意味のある小説が私は好きだけれど、こういう小説も、私は大好きだ!

 

事実は小説より奇なりともいいますし。ぜひ、存分にふりまわされ、奇妙を前にしたときの己の無力さを味わってください。

 

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
小説を書いたり、読んだ小説についてあれこれ考察をするのが趣味です。雑食のつもりですが、ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれがち。小説の他に哲学、心理学、美術、異形や神話などの学術本も読みます。