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高校生のとき、自宅の階段から落ちたことがある。リビングから母が飛びだし2階の寝室で寝ていた父が飛びだしてくるほど大きな音をたてて盛大にすっころび、痣もでき、まぁまぁ痛かったはずなのにどういうわけか当の自分は、んふんふ、と、変な笑い声をあげていた。朝っぱらから。

 

そういえば小学生ぐらいのとき、雨でぬれたコンクリートの上で転んで膝の皮がペロッとむけたときもゲラゲラ笑っていた。患部にぬったオロナインが相当おもしろかったらしい。友達は軽く引いていた。

 

深い穴に落ちたらどうだろう。膝がすりむけているのを見て、最初はやっぱり痛みで笑うんだろうか。ひとしきり笑って、痛みが引いたあとで、…それからどうするんだろう。

 

イバン・レピラ『深い穴に落ちてしまった』は、ある兄弟が深さ7mの穴に落ちてしまったところから物語がはじまる――。

 

 

 

無限の可能性を秘めた物語


 

ある日、兄弟が森で穴に落ちてしまった。深さ7メートルの穴からどうしても出られず、木の根や虫を食べて何か月も極限の環境を生き延びようとする。外界から遮断された小さな世界で、弟は現実と怪奇と幻想が渾然一体となった、めくるめく幻覚を見はじめる……。名も年もわからない兄弟は、なぜ穴に落ちたのか?なぜ章番号が素数のみなのか?幻覚に織り交ぜられた暗号とは?寓意と象徴に彩られた不思議な物語は、読後、驚愕とともに力強い感動をもたらす。

 

※あらすじは東京創元社HP(http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488010676)より抜粋しました。

 

 

 

短時間で読めるページ数だけど無限の可能性を秘めた1冊。私見を述べると、前半は極限状態(特に飢え)における兄弟の身体的異変、弟の精神崩壊、それを間近で感じながらも気丈に支える兄の姿が生々しくも胸を打つサバイバル小説。後半は暗喩や寓意、暗号解読から多くのことを学び、感じ、考えられる抽象的または哲学的な寓話に見えました。視覚的にも心理的にも描写が緻密なのでどちらの視点で読んでも存分に楽しめるはず。

 

最初はどうしても弟の印象が強いけれど、兄の理不尽または不可解に見える行動の真意に気づくと読後すぐまた兄視点でまた物語を眺めたくなること間違いなし。兄ちゃん、あんたこそ男の中の男…いや漢の中の漢だよっ…!

 

 

 

革命を起こすということ


 

穴に落ちたときに兄弟が持っていた、パン、乾燥トマト、イチジク、チーズが入った袋。パンはキリスト教においてイエスの肉体をあらわすもの。トマトやイチジクは地域や人によっては「禁断の果実」とされているとか。これらには手をつけずに脱出しよう、生き延びよう、と決意する兄の強固な姿勢は神への反逆を暗に示しているようでもあり。

 

また、チーズは母性の象徴で本書において弟が「この穴は子宮で、ボクたちはこれから生まれようとしているんだ」(P78/L8)と発言していることからも、母なる大地(自然)から与えられる恵みや運命に完全にはすがらず、あくまで自らの意思で行動・抵抗せよ、という物語のようでもある。

 

兄は無心になって身体を鍛え、弟は幻覚を見るまでにせわしなく思考を続けた。個々で見れば極端な変化だが、「2人が同じ穴にいる」という状況に注目したい。どんな極限状態においても神の定めし運命に謀反を起こそうとするには、行動と決断(フィジカルとメンタル)のどちらかではなく、その両方が同じだけ備わっていなければならないのである。

 

 

 

素数は永遠だ。人は個人の人生においても、また人類の歴史においても、数えきれないほどの決断と行動、ときには神や運命、社会や権力に抗う革命を起こす。

 

人によって“穴に落ちる”局面やそのタイミングはそれぞれであること、一度ではないこと、そこがはじまりでも終わりでもどこでもないこと――物語のはじまりに章番号がふられていないのは、そのような意味が込められているからではないだろうか。

 

兄弟はどちらも私たち読者の象徴。私たちが困難につまづいて本書に手を伸ばしたとき、兄弟はふたたび、いや、何度でも穴に落ちるだろう。そして悩み、苦しみ、しかし抗う姿勢を見せてくれる。何度だって読んでいいんだよ。何度困難に立ちむかったって味方でいるよ。無印のはじまりからは、そんなふうに作者が穴の外から手を差しだしてくれているような気配を感じる。

 

 

 

答えではなく意味を見つける


 

兄弟はなぜ穴に落ちたのか。なぜ名前や年齢が明かされないのか。なぜ素数なのか。なんの寓意なのか。なんの暗喩なのか。

 

物語として素直に読めばあまりに漠然としたおはなしだ。「おもしろくない」「よくわからない」と投げだしてしまう人もいるだろう。だけどそうなったときにはどうか思い直してほしい。これは兄弟の物語ではなく兄弟に置きかえた“私たち”の物語である、と。

 

この本から何を読み取っていただくかは、読者それぞれの自由にお任せしたい。

 

訳者あとがきによれば、作者もこのように言っている。

 

なぜ穴に落ちた(困難に陥った)のか。兄弟(あなた)は誰(どんな人)なのか。なぜ素数なのか(1から2、3…ではないのか)。

 

これは隠された答えを当てるのではなく、自分で意味を見出していく物語なのだと思う。物語やオブジェクトがもつ意味は読むたびにきっと変わるだろう。その変化から自身の成長あるいは社会の変遷を感じるのもまた一興だ。

 

 

2017年8月9日に加筆修正しました。

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Writer
佐々木 麦 Sasaki Mugi
読んだ小説の感想や考察を書いています。好きが高じて元小説家志望なので、一篇の物語のように心躍る記事が書ければ。ユニークな設定やしっかりとテーマがある小説に惹かれます。小説の他に哲学、美術、神話などの学術本も好きです。